とうとう先に逝ってしまった竹馬の友!!

 
子供の頃よく遊んだ実家の庭、少し水面が見える池は昔は豊富な水量があり鯉を放っていた。 

 

 11月17日の朝、突然中学時代の級友から、M君が亡くなったことを知らせる電話があった。
M君とは小学校に入学する前からのつきあっていた最も古い親友で文字通りの竹馬の友だった。私は奥手で内弁慶だったため、家に閉じこもりがちで集団生活の経験がなく、小学校へ入学したばかりの頃は、一人になるのが怖くて、いつもM君の後を追っかけていたので級友たちから「人間磁石」という渾名をつけられた。
 幼い頃は、彼は近所の子供たちを連れて、よくわたしの実家に遊びに来た。我が家の庭は当時は、池には錦鯉も放流され、梅の木や、松の木など大きな木もあったので、ターザンごっこなどをすれよく遊んだ。
 小学一年の頃、池端で二人でふざけているうちに、池に落ちてしまい、ずぶ濡れになり、母に着替えさせられた記憶がある。

 中学の頃は、小学校の校庭で一緒に野球などをして遊んだが、彼は中学を卒業するとすぐ、東京に出て就職した。65年前の片田舎では、中学校を出て就職する子供たちが多く、私のように大学に進学するのは10人に一人くらいしかいなかった。
 学生時代(たしか二十歳くらいの頃だったと思う)、私が正月休みで実家に帰っていた時、かれが立ち寄ってくれて、炬燵にあたりながら、色々語り合った。驚いたことに彼は自分は結婚すると話してくれた。連れ子のいる年上の女性だという。そして彼女のもつ深い母性に強く惹かれたらしい。
 その後も、間欠的に付き合いは続いた。
直接会う機会がなかった年でも、年賀状のやりちりは毎年行っていた。しかし10年くらい前だったか、もうお互いに年なので年賀状のやりとりはやめようと申し出て来たので、私の方からも年賀状の挨拶じはやめるようにしていた。その代わり毎年一度は、直接会い飲食を共にしながら、懐かしい昔の思い出話をすることにした。いつもは彼の方から立川に出てきてくれて、立川駅で待ち合わせ、市内のレストランで食事し、駅地下君喫茶店で仕上げをし、別れるのが常だった。彼は大病をし体が弱っていたので階段のぼり下りはキツそうだったが、それでもゆっくりながらわりにしっかりした足取りで歩んでくれた。
しかし、5年くらい前になると、もう体が弱って立川まで出かけるのは、キツいということだったので、私の方から彼の自宅がある府中に出かけ、そこで落ち合い、飲食を共にしながら語り合った。そして、2017年の5月29日に府中であったのが、直接彼と顔を合わせる最後の機会となった。
 その日は、府中の大国魂神社に参拝し、府中のレストランで食事し、最後に喫茶店に寄って別れた。























 その後は、外出も難しくなったということで、電話か手紙のやりとりだけで直接会うことは出来なかったが、彼が2ヶ月ほど前に彼から共通の知人の訃報を知らせる電話があったが、それが彼の声を聴く最後になった。その時の電話の声は張りがあり元気そうであり、「もうしばらくは元気で生きていてくれそうだ」と安心した。級友からの伝言だと、彼は10月28日の日に亡くなり、コロナ下のことなので葬儀は家族二人だけで(奥さんとお嬢さん)終えたということだった。
 11月18日にお嬢さんに電話したが、年賀状をもらった人には連絡したという。
彼と私の関係はお互いに二人しかわかり得ない幼い頃からの想い出で心が繋がりあっていて、それは、家族にも触れられない世界だったのであろう。「決して他人に漏らさないようにという条件で教えてもらった、緊急時の電話番号も使わずじまいになった。
 かれは、逝ってしまったが、私が生きている限り、私の心の中で生き続けてくれるであろう。
                      (2021年11月21日記)






    

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 大國魂神社にて。右下帽子を被っているのがM君