編集長より『音楽ドラマ』について書いて欲しいという要請があり、紙面を3ページいただいた。しかし、いうまでもなく、音楽ドラマの世界は広く多様であり、3ページで書きうる内容は、ほんの氷山の一角に過ぎぬであろう。そこで、今回は「自分自身の創造と音楽ドラマの関わりについて」という内容に絞って書かせていただくことにした。
私は作曲家に憧れた高校生の頃から、どちらかというと純音楽より劇音楽の方により強い関心を抱いていた。ラジオで放送されたバイロイト音楽祭のワグナーの楽劇や、来日したイタリアオペラの公演のテレビ放映などには、強い関心を抱き視聴した。
しかし、小さい習作は別として、比較的大きな劇場作品は、30代の頃音大の学生用に書いたオペラ『蝶の塔』と、2005年に発表した音舞劇『火の鳥』の二作しかない。『蝶の塔』はメルヘン・オペラの範疇に入る作品と言ってよいが、声楽のソロを軸にしたプッチーニなどのイタリア係オペラとは大きく異なり、敢えて形容すれば台詞(せりふ)が入り、合唱を多用した日本版ジングシュピールといった風の作品だった。この作品には編入楽器として当時は我が国に数台しか存在しなかった電子楽器オンド・マルトノを使用したが、事情があり、楽器を借りることが出来なくなったため、その代替楽器として、当時ようやく世に出回り始めていた鍵盤付きシンセサイザーをローランド社から借り受け使用した。それがキッカケで、勤務校の要請もあり私は電子音楽を研究することになり、声楽、器楽作品の作曲から一時遠ざかる。また2005年の音舞劇『火の鳥』は舞踊と電子音楽による音楽ドラマである。
オペラ『蝶の塔』の初演時の評判は悪くはなかったが、自分自身で顧みるとあまりにも未熟な箇所が多く、また『火の鳥』も音楽ドラマとしては完成度、燃焼度とも不十分であり、自分自身が納得出来る音楽ドラマの完成が私の生涯の課題として残されている。
音楽ドラマと台本
オペラであれ、ミュージカルであれ、舞踊を主体とした作品であれ、音楽ドラマの殆どに台本が存在する。多くの場合、台本は作品の設計図であるとともに、音楽ドラマを乗せて運行する車両でもある。それゆえに音楽ドラマの創造者の多くは台本に対して大きな拘りを抱く。代表的なオペラ作曲家の、ヴェルディ、プッチーニなども、台本が気に入らないと作曲の意欲が沸かず、台本作者に対して色々注文をつけていたようだ。また、作曲者自身が台本を手がけるケースも少なくない。その代表的な例がワグナーであり、彼は自身が創造した歌劇、楽劇の台本をすべて自分自身の手で書き上げている。ワグナーは文才にも恵まれていたが、強い創意とそれを達成するための類い希な強靱な意志力を備えた人物で、自己の心に描いた芸術世界の実現をめざして創造行為を重ねる中で、作曲技術も向上し、台本作家としても成長して行ったのではないかと考えている。
私の場合はどうであろうか。実は私も自分の音楽ドラマ作品の台本は自分自身で書くことにしている。しかし、その理由は自分の文才に自信を持つからではない。前述の『蝶の塔』の際、比較的好評だった新聞評の中に、今後の課題について触れた部分があり「台本での台詞の凡庸さも、もう一段香りのある言葉に置き換えたいが、それには専門の台本作家の協力が必要だろう。」と書かれている。では、なぜ台本作家の手を借りようとしないのか。それは、私の新しい音楽ドラマとなって日の目を見る筈の作品素材は、私の想いのかけら、塊となって、他の人には覗くことが困難な、私の心の引き出しに格納されており、それを自由に引き出して活用出来るのは、いまのところ私本人しかいないからである。もし、私の心の中を覗こうとする好奇心旺盛で文才のある友人が現れれば、その人物に台本の制作を依頼することも考えうるであろう。しかし、今の段階では私自身が台本を書いている。文学者としても劇作者としても才能に乏しい私が、そこから創作活動を開始することで、何度も手直しが入り、作品の完成までに多くの時間を費やしてしまうのだ。
音楽と言葉
昔から言葉と音楽は密接な繋がりがあり、多くの場合、歌には歌詞が伴う。しかし言葉には「読んで内容を理解するのに向く読み言葉と、聴く行為に向いた言葉があると考える。当然、時間を止めてじっくり読まないと理解出来ないような詩は、歌の歌詞には向かない。しかし、歌と詩の関係については今までにも多くの議論がなされており、今回は文字数からしてもそこに触れる余裕がないので割愛する。そこで、台詞、詩の朗読の場合の言葉と音楽の関係について少し触れてみよう。音楽ドラマには歌唱だけでなく、台詞が挿入されるケースも多い。また、詩の朗読と音楽によるマルチ芸術の創作・公演も少なくない。言葉と音楽がバッティングしないで交互に現れる場合は問題が生じにくいが、音楽と言葉が重なり会う場合、上手に重なり合えばお互いが生かされ相乗効果をもたらすが、その重なり合いが表現上の適切性欠いた場合、お互いに相殺しあい、表現力を弱めてしまう。相殺作用をもたらす条件として、音楽と言葉の音量のバランスなど物理的条件の不適切さが要因となることもあるが、音楽の様相と、朗読や語りの口調などのミスマッチングによってもたらされてしまうこともある。マルチ芸術作品、複数の芸術部門が重なり合う総合芸術作品の場合、やはり作品全体を見渡し管理する統合者が必要となる。音楽ドラマの創造における統合者は作曲家であり、作品が舞台にかけられ、演奏される段階においては、音楽面では指揮者、舞台については演出家に権限が与えられるが、練習から本番に至る過程において、作曲者、指揮者、演出家の意見が衝突し、激しくやりあうこともしばしばである。そういう場合は、お互いに納得し合うまでトコトン議論を重ねるしかないが、大概の場合、指揮者、演出家は作曲者を作品全体の統合者と認識し、その意見に対しては耳を傾けようとするものである。
言葉と声楽家の発声について
音楽ドラマにおいては、音楽家に混じって舞踊家や舞台俳優が舞台に上がるケースも少なくない。高度な舞踊の技術を必要とする場合はプロのダンサーを動員する必要が生ずる。しかし、台詞や芝居について、私はしっかりと訓練を積めば、声楽家に委ねても大きな不満は生じないと考えている。地声を多用するようなにリアルで日常的な言い回しの場合、舞台俳優の方が適しているかもしれないが、音楽ドラマにおいては、言葉に象徴的な意味を持たせ、より詩的に響くような発声を要求する場合も多い。私個人は、そういう言葉の発声においては声楽家に委ねることを好む。それは歌のみならず台詞においても、声楽家の発声の方が美しく声量も豊かである場合が多いからである。
ただし、台詞を語る場合のテンポ、強弱などの加減について、多くの場合声楽家はもっと訓練を積む必要があう。テレビや映画などの場合、台詞は普通のテンポ(日常生活における会話のテンポ)で十分聞き取れる。しかし、ステージと客席との距離が遠い劇場では、テンポをやや遅めに発音しないと、客席まで言葉が届かない。呟くような表現が必要な場合でも、むやみに音量を落とすのではなく、声色を変えて感じを出すようにするなど、工夫が必要となる。舞台芸術においては椅子などの小道具も実際より大きめのサイズのものを用いることが多いが、それは舞台という条件を配慮してのことである。台詞のテンポ、声色なども舞台という条件を配慮して適宜に加減しなければならない。
また、日本語の歌詞が用いられている場合、その発音について、事前の研究と訓練が必要と思う。まず、節をつけずに、歌詞の部分を、詩を朗読するように発音する訓練から入るとよい。その場合、子音を明瞭に立てて発音する練習を繰り返すと効果的であり、そのような訓練を積み重ねた上で節をつけて歌うと、日本語がより聞きとり易くなる。クラシック系の声楽家の発声は、台詞で語っても美しく、私は好きなのだが、歌唱における日本語の発音の明瞭さという点では、ポピュラー系の歌手の方に一日の長があるように感ずることが多いのである。
舞台装置、照明について
舞台芸術においては、大道具、小道具、衣装などにおいて多くの費用がかかり、それが公演を実現のための枷となる場合も少なくない。しかし、現在の舞台芸術公演においては、舞台装置はシンプルなものにとどめ、照明による表現に重きをおく場合が多い。私の場合でいうと、私が描きたい世界は、外からは目に見えない人間の心の世界である。従って具象的な舞台装置や、道具類を多用する舞台は作品の意匠に合わない。照明による変化自在の表現を用いる方が、私が描きたい世界を表出するためにはより相応しい。
新しい音楽ドラマの様式は
ドラマ作品の形態は、通常のオペラ、ミュージカルなど、いずれの範疇にも入らない作品となろう。しかし、オペラの定義は広いので、様式名についてはオペラでもよいと考えている。いずれにしろ既成の芸術様式に囚われずに、私の心の中に住み着いた「想い」を忠実に形象化する作品としたい。
それはワグナーの楽劇のような壮大な叙事詩ではなく、見えにくい人間の心の世界を描いた、小さく愛おしい作品となることであろう。
新しい音楽ドラマはいつ実現するのか
死ぬ前に必ず実現させなければならないが、そんなに遠い先のことではなく、数年後には実現させるつもりである。実は、私は心の中で、新しく作る音楽ドラマは自分自身の「白鳥の歌」の歌となってもよいと考えるように、と言い聞かせて来た。心の中でそのように言い聞かせているうちに、その作品が本当に私の創造活動に終止符を打つ作品となるような気がして来て、それがプレッシャーになり、創作の筆の運びを遅らせる要因となってしまっている。8年前のことだが、私の師であるS先生や大学の同僚たちが参加していた私の音大の定年退職祝いの席で、「私は、まだ自分がやりたいこと、やれそうなことの1/4ほどしか成し遂げていない。あとの3/4はやり残したままである。それをすべて成し遂げるには、あと200年くらい生きながらえる必要があるだろう」とスピーチして参加者を笑わせたことがあったが、やりたいことの1/4しか成し遂げていないというのは、私の正直な実感である。それは、有り体に言うと、私は意志が弱く、怠け者で、やるべきことをやらずに、いたずらに年を取ってしまったということである。私はワグナーに対して強い畏怖を感じているが、それは、彼が強靱な意志力と、並外れた、集中力、持続力を備えている人物と思えるからである。意志が弱く、集中力、持続力を欠く私にとって、彼は私が持っていないものを持つ正反対の人間だからである。過去において、幾度も自分自身の弱点の克服につとめたが、結局、自分を変えることは出来なかった。
それでも、夢中になった時には我を忘れて集中することもある。しかし、年のせいか、長く集中するとやはり疲れが出てしまう。しかし、若い頃から山で鍛えて来たことが生かされているのか、肉体面では今のところ年のわりには健康である。私はいまでも登山を続けているが、60代以降、若い人の倍以上の時間をかけて超スローペースで登るように心がけている。そのような登り方をすると、あまり疲れずに登り続けられるからである。人生も、創造活動についても、今は自身の弱点の克服はあきらめ、超スローペースで歩んで行こうと考えている。
(なかじま・よういち 本会理事・相談役)