松平頼則生誕100年に寄せて     作曲:中島 洋一

 
松平頼則について


 作曲家・松平頼則(まつだいら・よりつね)は1907年5月5日に生まれ、2001年10月25日に没しているので、今年が生誕100年で節目の年となる。実は編集長に原稿を頼まれるまで、今年が松平頼則生誕100年に当たるということにさえ、気がつかなかった。
 しかも、私は頼則氏のご子息の松平頼暁氏(作曲家)とは、日本現代音楽協会の総会や、コンサート後の酒席などで、お付き合いしたことがあり、多少の面識はあるのだが、御父君の頼則氏とは面識もなく、作品も殆ど聴いていない。従って書き手としてはまことに相応しくなく、本会から執筆者を選ぶとすれば、助川敏弥氏の方がずっと相応しいと思うのだが、作品の一覧表を作り、作曲者を紹介するだけでもよいから、ということだったので、お引き受けした。
 しかし、考えてみると、作品の一覧表など資料を調べればすぐ解ることだし、そのようなことは音楽学者に任せておけばよい。また、この人の作品の数は膨大であり、その目録を掲載するだけでも相当のページ数を費やしてしまう。それなら、いっそということで、情報量は乏しいしながらも、私個人の視点から見た作曲家象を書かせてもらうことにした。

  
私と松平頼則

 ところで、100年前に生まれた人というと、ずいぶん昔の人のような気がするが、まだまだお元気でいらっしゃる本会の西山龍平氏は、2004年度に100才を迎えられ、記念コンサートを開催しているので、松平頼則は西山氏より少し年下ということになろうか。従って大昔の人ではない。
 私が作曲家を志そうと決意した高校時代、片田舎に住んでいた私は、日本の作曲家については殆ど知らなかった。誰でも知っている、山田耕筰、滝廉太郎の他に、私の高校時代の音楽の先生のそのまた先生だった菅原明朗の他は、別宮貞雄、団伊久磨、芥川也寸志、黛敏郎などの名前が挙げられる程度だった。
 音大に入った後、私は和声を島岡譲先生、作曲を高田三郎先生について学んだが、伝統派で保守派の高田先生は松平頼則氏がお嫌いなようだったし、ロマン派の音楽に惹かれたのがキッカケで作曲家をめざした私にとっても、松平頼則氏、頼暁氏の音楽は遠い存在だった。
 ところで、大学の高学年になると、「近代和声」というレッスンがあり、ドビュッシー、バルトークなど近、現代の作曲家の作品分析の他、ハル(Arthr・Eaglefield・Hull)著の「近代和声(Modern Harmony)」をテキストとしてレッスンが行われた。ところが、この著書の実作品の引例の多くがハル自身の作品か、あるいは名もない英国の作曲家の作品で、しかも凡庸かつ陳腐きわまりないものが多かった(このことについては師弟共に同意見だった)。すでに、前述の作曲家の他、ストラヴィンスキーやプロコフィエフなどの作品にも触れていた当時の私にとって、それは耐えられず、音楽之友社から出版されていた松平頼則著「近代和声学」を買って勉強した。こちらの著書の方が優れた引例が多く、私にとって、ずっとためになったので、友達と「こっちの本の方がずっといいね」などと話し合ったものである。
 おそらく私は、その時はじめて松平頼則と いう名前を意識したといってよかろう。
しかし、松平頼則氏の作品は殆ど聴いたことがなかった。聴いた作品といえば『ピアノと管弦楽のための主題と変奏曲』の他、いくつかの歌曲程度ではなかろうか。

  
改めて松平頼則の作品に触れて

 この文章を書くにあたって、この作曲家の足跡をCDを聴きながら辿ってみることにした。しかし、この多作の作曲家のすべてがCD化されている訳でもなく、怠惰な私が辿ってみることが出来たのは、彼の作品のほんの一部にすぎない。
 私が知り得たもっと古い作品は1928年〜30年に作曲され、7曲からなる『南部民謡第1集』である。1928年と言えば3才年上の作曲家、橋本国彦が、ドビュッシーの影響を強く受けた歌曲『斑猫』を発表した年である。松平頼則の作品は、山田耕筰、橋本国彦のようにヨーロッパに留学し、西洋の正統的作曲技法を学んで来た作曲家とはやや傾向が異なる。もちろん、部分的にドミナント→トニック進行をともなう部分もあるが、山田耕筰などと違い、私が聴いた作品の範囲では、19世紀ロマン派の機能和声音楽の影響が殆ど感じられない。そうかといって、木訥で誠実だが、どこか素人臭さを漂わせる清瀬保二の作品などともまるで違う。初期の作品においては、まだまだ古典的な作風ながらも、西洋の近、現代の音楽を積極的に吸収したことが伺え、早くも西洋の新しい音楽と日本の伝統音楽との融合が試みられている。例えば第7曲の『盆踊り』など、複調手法が取り入れられている。作曲の勉強はほとんど独学だったということだが、手法に素人臭さはなく、ピアノのパートなども、ピアノが弾けない人間のピアノ書式にありがちな、弾きにくさというものはない。若い頃はピアニストとしても活動していたほどだから、ピアノも相当達者だったのだろう。
 おそらく、松平という姓から徳川家との血縁を想像させるが、父の松平頼孝氏は子爵でまた鳥類学者でもあり、膨大なコレクションの所有者だったということだから、当時の西洋の新しい音楽の楽譜やレコードなどが手に入りやすい環境の中で青年時代を過ごしたのではなかろうか。『南部民謡第2集』は1938年作曲されているが、第1集に比べ、和声法などにより新しさが見られるが、第1集同様、曲中拍子は不変で、より譜割を自由にする試みはみられない。第1集と2集の間の1934年には管楽器、打楽器、ピアノのための「パストラル」が作曲されている。
 1939年〜45年に作曲された『古今集』になると、窮屈で規則的な譜割から脱して、拍子を変えたり、小節線を点線で示すなど、拍に囚われない書き方をしており、そのため、歌のパートの扱いもより柔軟になる。まだ調性はあるものの曖昧になってきており、そういう書法の場合、調号を付けるとかえって見にくくなるので、全8曲とも調号を用いずに、臨時記号だけで書かれている。この曲は、今聴いても新しさと高い完成度を感じさせる。

     
新しさを求め、ひたすら走り続ける

 1945年に終戦となり、いよいよ戦後期の活動に入る。1951年には彼の作品の中で最も有名でまた世俗的成功を収めた「ピアノとオーケストラの為の主題と変奏曲(盤渉調越天楽による)が作曲されている。この作品は6つの変奏により構成されているが、最初は雅楽のオーケストラ版のような始まり方をする。しかし、変奏が進むにつれて様々な要素が加わり、協奏曲風の華やかなピアノの動きがあったり、無調の部分が出現したり、第五変奏ではブギ・ウギのリズムが出現したりで、西洋の近代と日本の伝統の融合というより、西と東が雑居しているような感じを受ける。しかし、主題が誰でも知っている越天楽のメロディーであること、殆どの部分は、調性を明確に保っていること、そして前述したように雑居所帯ともいえるような雑多で多彩なところが、通俗的な成功を収めた理由ではなかろうか。雑居所帯などと皮肉な表現をしてしまったが、作曲家としての腕は確かで、今聴いても十分楽しめる。
 しかし、松平はこの作品の成功に満足することはなく、西洋の前衛音楽と日本の伝統音楽の融合を求めて突き進んで行く。
1953年には『催馬楽(さいばら)によるメタモルフォーズ』のうち、「美濃山」、「伊勢の海」が作曲されている。この作品は後に「更衣(ころもがえ)」が加えられ3曲構成となる。この作品の冒頭にある“Introduzione”では笙の役割をする弦楽器の和音にのって、篳篥に当たるオーボエと、龍笛にあたるフルートが12音列による旋律を奏でる。このセリーは、後半の音は前半の6音の増4度移調形になっており、こういう音列構造はアルバンベルグの作品などにしばしば見られる。(譜例、1、2を参照のこと)。



この音列は、本曲に入り、チェンバロの伴奏和音などに受け継がれてゆく。また、声のパートと管のパートがズレながら重なり、ヘトロフォニー的効果を醸し出しているところもある。この作品は、前述の作品に比べ、より高い完成度で、新しい西洋の音と、東洋の伝統的な音との融合に成功しているといえよう。
 1957年には管弦楽の「フィギュール・ソノール」、をそして、同年には管弦楽のための「右舞」を、1958年には、「左舞」を作曲した。この頃になると、雅楽の旋法を12音技に取り入れ、全曲を12音技法で書くようになる。また、この頃にはISCM音楽祭にしばしば入選し、生涯で13回入選している。そして、1967年には日本人としてはじめて同音楽祭の国際審査委員に選ばれている。
 松平は60年代になるとさらに先鋭的になる。私は1962年に作曲されたオーケストラのための『舞楽』のスアを見て驚いた。この作品は基本的には音列手法をベースにしながらも、当時の最前衛のもろもろの手法が取り入られている。例えば、いくつかの音群のグループの中から、任意に選択する不確定的手法、現のパートがバラバラにグリッサンドを奏でることによって生ずるクラスター的効果など。正直いって、楽譜を見ながらCDを聴いていて、音符を追っかけ損ないそうになることが幾度かあった。ウェーベルンの作品などではそのようなことはまずない。ここまで来ると古典的な12音主義の音楽は、遠く後ろに去ってしまったかのように見える。一方、能管のヒシギ奏法を連想させるようなフルートの最高音域の鋭い音、笏拍子を連想させる打楽器のリズムなど日本の伝統音楽を想起させる部分もあるが、50年代の作品と比べると、ヨーロッパの最前衛の音楽への傾斜がより強まり、民族性は逆に薄められたように感じられる。

    
彼は何を求めてこうも走り続けたか?

『舞楽』のスコアをみながら、当時の若い前衛作曲家と比べても、前衛性、先端性という点で、勝とも劣らないものを感じた。なぜ、彼はここまで走り続けたのか?それは、もちろん私には答えが出せない。しかし、近代化した西洋に追いつき追い越すためにひたすら走り続け続けた近代の我が国歴史と、どこかで重なり合っているような気がする。
 彼は、雅楽と西洋の前衛音楽との融合を図りながら、晩年になるまでは、我が国の伝統楽器を作品に取り入れることはなかった。また、それを望んだとしても、1950年代の邦楽界においてそれは困難だったかもしれない。日本の伝統楽器と西洋の前衛音楽のコラボレーションによる東西の音楽的融合は、武満徹、石井真木など、松平より20才以上若い世代によって実現されて行く。
 彼は2001年に、94才で没する直前まで、作曲し続けたが、これは実に驚くべきことである。絶筆となったのは、ソプラノ、フルート、ピアノの為の「迦楼羅(かるら)(未完)である。
 1980年代以降、前衛音楽が袋小路に入り、下火になって行った中でも、彼は自分の作曲のポリシーを変えることはなかったようだ。
 私は後期の作品は、ほんの少ししか聴いていないが、オーケストラのための「春鶯囀」(1992)、源氏物語より「朧月夜」(1993)などを聴くと、初期の作品とは一味違う、円熟した深みを感ずる。        
 なかじま よういち(理事・相談役)

中島 洋一     『音楽の世界』2007年3月号掲載

    (音楽・美術関係のメニューに戻る)