死に瀕した白鳥が、生涯で最も美しい歌を歌うという言い伝えがある。芸術家の遺書ともいえる最後の作品を「白鳥の歌」に喩える比喩は、かつては、文学者や芸術愛好者の間で好んで使われていたようである。ところで、シューベルトの『白鳥の歌』は、作曲者の死後、友人達が彼の遺稿をまとめ歌曲集として『白鳥の歌』の名を付けて出版したものだが、今では『白鳥の歌』とはこの作品の固有名称のことと誤解する人もいるほどで有名である。
芸術家にかぎらず、人は自分の死期を予感した時、自分が生きた証を何かで残そうと願うであろう。「白鳥の歌」とは、一般的にはその芸術家の最後の作品を意味するが、芸術家が自ら人生との告別を意識して作品を書くことも少なからずあると思う。グスタフ・マーラーなどは、幾度も告別の曲を書いている。
まず、生への執着からか、最後の交響曲となることを恐れ「第九」の番号を与えなかった交響曲『大地の歌』。アルト歌手が「ewig, ewig...(永遠に、永遠に...)」と何度も繰り返し、最後に第5音を省いたトニックの付加6(ド、ミ、ラ)の和音で消えるように終わるこの作品の終楽章「Der Abschied〈別れ〉」の最後の部分など、若い頃にはつい涙ぐみながら聴いたものである。次にやっと決断して「第九」の番号を付した交響曲第9番。この最終楽章の変ニ長調アダージョも正真正銘の別れの歌である。消えるように終わるフェルマータを付した音符をもつ最後の小節には、『大地の歌』と同じく、ersterbend(死に絶えるように)という言葉が付されている。そして本当に彼の白鳥の歌になってしまった交響曲第10番、この作品は未完成で終わっているが、作曲者自身が完成させた第一楽章のアダージョからも、憂いと慰みに満ちた別れの心情が、聴き手の心に染み込むように伝わって来る。
モーツァルトの遺作となった『レクイエム』については、灰色の服を纏った見ず知らずの作曲依頼人をモーツァルトは天からの使者と思い込み、作曲に着手したという逸話が残されている。その逸話は信じ難いが、たとえ依頼者が判っていたとしても、死期を悟った作曲者が自分自身のために『レクイエム』の筆を進めようとしたことは、十分に想像出来ることである。最初の8小節だけ書いて絶筆となった「ラクリモーサ(涙の日)」の心をかきむしるように上行する半音階は、そこで彼が力尽きとことを窺わせる。そして、この作品はモーツァルトの白鳥の歌となった。
『レクイエム』はモーツァルト35才の作品だが、より若年の作者が「白鳥の歌」となるかもしれないということを意識して書いた作品の例をあげよう。
それは、加藤道夫の戯曲『なよたけ』である。この戯曲は今日では劇場で上演される機会はそう多くはないが、戦中戦後に生まれた日本の戯曲作品の代表的作品で、三好十郎の『炎の人』と並んで、私が最も好きなこの時代の戯曲作品である。
物語は、時の権力者、大納言大伴ノ御行(みゆき)の陰謀により、東国に父とともに左遷された石ノ上ノ文麻呂(ふみまろ)が、貧しい竹籠作りの娘、なよたけと友人との恋をとりもつうちに、なよたけの天女のような清らかな美しさに次第に惹かれ、やがて激しい恋に陥り、幻想の世界を彷徨うようになる。幻想の世界で、なよたけは彼の腕に抱かれて死ぬが、現実の世界では仇敵大納言大伴ノ御行のめかけになる。文麻呂はこの失恋の体験を経て、日本の古典文学の中でも最も美しい作品『竹取物語(かぐや姫の物語)』を書く決意をする。
この作品については、初版本の後書きに作者自身が「ちょうど戦争が酷な頃で、作者は数ヶ月後には南方で通訳として赴任しなければならぬ身であった。僕が『なよたけ』を書いたのは、そう云う精神の不安を抹殺しようという気持ち、何か生きていたという証拠を書き残して置こうと云う気持ちからだったようである。」と書いている。私がこの作品に接したのは作者がこの作品を書いた25才時より10年ほど年を重ねた35才くらいの頃だったと思うが、いくらか女々しさを感じさせるところがあるものの、傷のない美しい大和言葉で連ねられた台詞を通して内なる聖女の姿を追い求めようする作者の青春の魂の燃焼が伝わって来て、死を覚悟し遺書としての残そうとした作品ならではの清澄な叙情性を感じた。
なお、戦時中に書かれたこの作品を巡っては、空襲で原稿が焼失することを恐れた劇団仲間たちが、手書きで原稿の複製を三通作り、それぞれ手分けして保管し、戦争が終わったら舞台にかけようと誓い合ったという逸話が残っている。加藤道夫は戦死せずに無事帰国するが、昭和28年(1953年)に自殺している。『なよたけ』の初演はその2年後のこととなった。なお加藤道夫の妻は、浅見光彦シリーズの母親役など、テレビ、映画、舞台で活躍している女優の加藤治子である。
戦時中には、年端もいかない多くの若者たちが戦地で死に直面した。芸術作品ではないが、特攻隊員として死んで行った若き兵士たちの手紙や手記などには、胸を締めつけられるように心打つものが少なくない。戦争でなくとも、大震災などで、突然肉親や、親しい友人を失った人も多かろう。人は死を意識したとき、自分の生をあらためて深く見つめ直そうとする。いまの若者たちの多くにとって、死は身近な存在ではないかもしれないが、何時か死と生について、正面から向かい合わなければならない時が訪れよう。その時、自分は何を残せるか、何を残しておきたいかを強く意識するようになるのではなかろうか。私の場合は、幼くして肉親と死別する体験をしており、常人より死に対して敏感な筈なのだが、性格が愚図で怠け者のせいか、大切なことになかなか手をつけられず、ついつい後へ後へと廻してしまう。
従って、まだ自分の「白鳥の歌」を残していない。このままでは、死にきれないという思いがあるが、もし、「白鳥の歌」を残さず死んだとしても、自分自身を恨むことしか出来ない。時はどんどん過ぎて去って行くが、人の命には限りがある。このことは老若男女を問わず、つねに頭に入れて生きていなければならないのであろう。
(なかじま・よういち 本誌 編集長)
『音楽の世界』2013年4/5月号【論壇】覧に掲載