エッセイ 独断的三島由紀夫論     作曲:中島 洋一

 まえがき

 1970年11月25日、三島由紀夫が、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地でバルコニーから自衛隊員に向かい決起を促す演説を行った後、盾の会の森田必勝らの介錯で割腹自決し45歳で没した事件は、社会に大きな衝撃を与えましたが、もうあれから52年を迎えようとしています。
私も衝撃を受けなかったといえば嘘になりますが、実は死が近づいていた頃、彼が新聞者に掲載した文や、その数年間の彼の行動をみていると、何かを起こしそうだという予感あり、あの事件に接し、むしろ「やっぱり」という気さえしました。
私にとって、三島由紀夫は好きな作家ではなく、むしろ嫌いな作家ですが、ずっと気になる存在であり続け、死後50年以上経てもそれは変わっていません。
三島由紀夫の死を経て、多くの作家・文化人などが三島について語っていますが、作家の深沢七郎は「みんな三島由紀夫を通して自分自身のことを語っている。」と書いていたような気がします。
そこで、私は、ずっと気になり続けていた三島由紀夫について独断的な私論を展開しながら、三島と対比させて自分自身について書いてみようと思い立ちました。
 なお、このエッセイについては、いつもの「敬体」ではなく「常体」で書こうと考えたのですが、結局「敬体」に戻しました。その理由についてはこの文の終わりの方で説明します。

 太宰治をめぐって

 1946年11月のことですが、太宰治、亀井勝一郎を囲んで文学青年たちの集まりがありました。その席で三島由紀夫は「僕は太宰さんの文学はきらいなんです」とはっきリ告白しています。その時、太宰は誰に言うともなく、「そんなことを言ったって、こうして来てるんだから、やっぱり好きなんだよな。なあ、やっぱり好きなんだ」と語ったそうです。(三島由紀夫『私の遍歴時代』からの引用)
 しかし、会合が終わった後、太宰治は「なら来なけりゃいいじゃないか」と言ったそうです。
以下は私の記憶によりますが、三島は「私だって作家の弱さが強さになりうることくらい判っている。しかしそれを誇るだけじゃなく、それを売り物にするとは」と太宰治を批判していたような気がします。
大江健三郎は、NHKのラジオ番組で、「太宰が好きという人と、嫌いという人は実は同族で、太宰に関心がないという人は、太宰とは無関係な人と言えるでしょう」と説明しています。
 三島由紀夫にとって太宰治は嫌いだが気になる存在だったいえましょう。それは、三島本人の心にも「自分を甘やかす」という太宰病が潜在しており、それを拒否するために太宰を嫌ったのかもしれません。
 実は私にとって太宰治は好きな作家の一人であり、この作家については全作品のみならず、書簡まで読破しました。一方三島由紀夫については、「仮面の告白」「金閣寺」などの代表作と10編ほどの短編、近代能楽集の数編と「鹿鳴館」などの戯曲を読んだに過ぎません。
 つまり、三島由紀夫にとって、太宰治は嫌いだが気になる作家であったように、私にとっては三島由紀夫が嫌いだが気になる作家だったということです。

加藤道夫について

 太宰治に対する評価は、三島と私では正反対でしたが、劇作家の加藤道夫について、三島が「こんなに心の美しい人はいない」と評価していたのを読んだ記憶があります。私にとっても加藤道夫の「なよたけ」は日本の戯曲作品のうち、もっとも好きな作品の一つです。その作品を彩る美しい大和言葉に魅せられたのも一因ですが、この作品は彼が戦地に赴く前に書き上げられ、己の偽らざる青春の心を遺書として遺しておこうという強い想いが込められており、それが作品に高い透明感をもたらしているからです。この作品は、演劇仲間たちが、コピー機などなかった戦中、手書きで3通浄書し、戦争が終わったら舞台にかけようと、各自が大切に隠し持っていたという逸話が残されています。
「こんなに心の美しい人はいない」などと、なかなか言えるものではありません。特に文士ならば。しかし三島は、自分の琴線に強く触れたものに対しては、ためらわずにこういう表現をする人なのかもしれません。

三島由紀夫と大江健三郎の対談

 三島由紀夫の自筆の書 
私が所蔵する筑摩書房版現代文学大系58 
三島由紀夫集より引用

  いまは手許にありませんが、調べてみると『群像』1964年9月号に掲載された「現代作家はかく考える」という二人の対談を読んだ時の記憶と思われます。ただし読んだのは発行直後ではなく、数年後なんらかの方法でバックナンバーを手に入れて読んだものでしょう。
二人の主張は殆ど咬み合いませんでしたが、「闘争の創傷のある作家は作家として認めます。それがない者は作家として認めません。」という意見について、二人は一致しました。「闘争の創傷」とは闘いによって負った傷のことです。私は三島の「仮面の告白、「金閣寺」や、大江の小説やエッセイ「厳格な綱渡り」などの読書を経て、二人が激しい内面的な闘いを経て負った心の傷の存在については認めることが出来ました。
それで、三島由紀夫が何と闘っていたか、探ってみたいと思います。

  肉体改造

 文学少年で、16歳で書いた「花ざかりの森」が高く評価され、文壇から天才少年と賞された三島でしたが、当時は青白くひょろひょろの少年だったようで、徴兵検査ではかろうじて第二乙種で合格し、1941年2月には入隊したものの、虚弱だったためか、病気になり肺浸潤と診断されすぐ帰郷させられました。結局、三島は一度も戦地に赴くことなく終戦を迎えますが、それが強いコンプレックスとなり三島の心を蝕んだと思われます。そういうこともあってか、1955年頃から、自己の肉体改造に取り組み、冷水摩擦、ボディビルなどを行うようになります。三島は大真面目で肉体改造に取り組み、厳しい鍛錬を続けたようです。
 一方、私は若い頃、単独行で重い荷物を担ぎ、あまり人の入らない山岳地帯を歩いたりしましたが、それは厳しい鍛錬というより、溜まった精神的ストレスから自身を解放することが主たる目的で、単独行が多かったのは、一人なら休みたい時は休み、自分のペースで歩けるからです。もっとも遭難寸前の体験をしたこともありましたが。
 ストイックに厳しい鍛錬を続けた三島に対し、私は自然と接し、感銘とやすらぎを得ていました。

 自分をまったく理解しない支持者に囲まれていた三島

  ところで、三島はマスコミを通して、鍛錬によって以前とは見違えるように筋肉隆々になった自己の肉体を晒したり、映画で人斬り半兵衛役で出演し殺陣をシーンを演じたり、自作の短編「憂国」が映画化された際、自ら監督と出演を兼ねるなど、世間を賑わすよになります。そのような三島を時代の寵児と崇め、羨望の目でみる人も現れ、三島は多くの支持者に取り囲まれるようになります。彼自身が軽蔑しているマスコミを大いに利用したことも要因の一つでしょうが、自衛隊に体験入隊したり、盾の会を結成したりした行為も、成功した芸術家のお遊び程度に捉える人が多かったのようです。
しかし、三島の心は、彼を時代の寵児として羨望する人たちの目からは届かない、別の世界をさまよっていたようです。では、三島が意気投合し、共感を分かち合えるかもしれない人たちはどこにいるのでしょうか。

 
東大全共闘の学生たちと討論

三島由紀夫vs当隊全共闘のビデオの蓋/発売元:TBS

 まず、我々の世代には心に強く刻まれている「全共闘」についてですが、より若い世代のために概略を説明しておきます。1965年〜1969年頃は、多くの大学で学園紛争が起こりますが、やがて紛争を過激化させないで解決に導こうとする民青(日本民主青年同盟)系全学連と、改革のためには過激な行動も辞さないとする他の会派が激しく対立するようになります。全共闘とは全学共闘会議の略で、民青系を除く他の会派の連合体です。そして東大全共闘とは東大紛争の際形成された同系統の組織です。
 三島由紀夫に意外にも東大全共闘から討論会への誘いがありました。三島は面白そうだと応じます。現行の民主憲法を改憲し主権天皇の政体を目指す三島と、現行の政体を共産主義革命により転覆させることを目指す全共闘の学生たち。いわば極右と極左の対決です。どんなに激しい闘いが展開されることか?
討論会は1969年5月13日東大駒場キャンパス900番教室で行われましたが、そこには1000人を超える学生たちが三島を待っていました。盾の会の会員たちが三島を守るためそっと待機していたようです。
ところが討論会の展開は意外なもので、鋭い言葉は飛び交いますか、三島の口から相手を罵倒する言葉は一切発せられませんでした。お互いにまったく咬み合わないこともありましたが、討論が進につれ、相手に対する共感、リスペクトが育まれて行ったようです。三島は討論会の最期が近づいた時言います。「諸君の熱情は信じます。これだけは信じます。」そうして、討論会は終わります。
 なお、この討論会を収録したビデオはTBSから発売されています。それぞれの人で受け止め方は異なると思いますので、興味があったら購入し視聴してみてください。
 そして、この討論会から1年半後、三島は例の事件を起こした後、割腹自殺をはかり、45歳で自己の人生を閉じます。

 三島の死に対する評価

 三島が自衛隊員に檄を飛ばし割腹自決した事件について、多くの人が「気が狂ったとしか思えない」という言葉を発していますが、中曽根康弘は「覚悟の上の行為だろう」と語っています。もちろん覚悟の行為ですが、私が気になったのは、三島がバルコニーで訴えかっけた声は、自衛官の発する罵声などにかき消され、言葉の意味は殆ど聞きとれませんでした。もし、本当に説得しようと思うなら、事前にマイクや増幅装置を用意しておくべきだったと思います。また、本当に天皇主権の政体の実現をめざすなら、自殺などしないで、みっともなくとも逃げ続け、説得活動を続けるべきでしょう。三島にとって、自決が目的だったと思えてきます。三島由紀夫は心のどこかで「天皇主権の政体」は実現不能で自分の心中にしか存在しない美しい幻想であることを認識していたのだと思います。
 三島は、病気で除隊し、一度も戦地に赴くことはありませんでした。しかし、三島が行けなかった戦場で同年配の若者たちが、特攻隊員などとして戦場で散って逝きました。彼らと行動を共に出来なかった三島の心には懺悔と後悔の心が芽生え、芸術家として評価が高まりにつれそれが大きくなり、自分の死に場所を探していたのかもしれません。また、三島には自分が生きている今の時代に対して疎外感と憎悪があり、そういう面では全共闘の学生たちも共通するものがあったのでしょう。
 しかし、もし三島が戦場に赴くことができ、そこで天皇・国家のため敵兵と勇ましく戦い美しく散る散華のイメージとはほど遠い、マラリアなどを患って病死したり、解放軍として喜んで迎えてくれる筈の現地民の怒りに触れ虐殺されたり、ジャングルの中をさまよい、親や子供達に想いを馳せながら、飢えで倒れ肉体は腐り野垂れ死にするような無残な死を目にしても、三島の想いや思想に変化はなかったでしょうか。これは仮想の世界のことなので、想像するしかありませんが、私は彼の死生観、政治思想にも影響を及ぼし、別の三島由紀夫が形成されていたと考えています。

 私の体験と死生観

  私は小学5年の時実母を癌で亡くしましたが、母が自宅療養して過ごした最期の四ヶ月は、ひょんなことで母が死にゆく運命であることを知ってしまった子供たちと、自分に与えられた運命を知らない母とが同じ屋根の下で暮らすという過酷な体験をしました。
 それから十数年後、継母も癌で失いました。二人とも周囲から慕われ、誰も死を望みませんでしので私には二人の死がとても不条理に思えました。二人の母の不運な死を通して、私は天から与えられた命に感謝し、それを大切にして精一杯生きようという想いを強くしました。
 ところで、三島由紀夫との討論会に参加した1000人の全共闘学生のうち、少数は私と同年配で、多数は私より少し年下の人たちだったと思います。左翼運動は1970年代に瓦解し、挫折感を味わった人もいたと思いますが、私の情報収集力不足のせいもあってか、自殺したという話はあまり聞きません。幸い、多くの人々が、それぞれ色々な分野で奮闘しているようですが、現実に向き合い前に進もうとすれば、変えて行かなければならないことが色々見つかると思います。僣越かと思いますが、自分の命を大切に、前に進んで欲しいと願っています。

 私の悲願について

  私は実母を亡くして以来、そこに行けば必ず自分を守ってもらえるという安住の場を失ったからか、時折心の不安に襲われるようになりました。そして、心の不安と向き合うことが、自分の人生における闘いのひとつとなりました。
 私は20代の頃、多くの文学先品を読みましたが、西洋の作家の中でヘルマン・ヘッセも好きな作家の一人でした。彼が書いたものの中に『聖母の泉(原題は「ナルチスとゴルトムント」)』という小説があります。読んだのは50年以上前なので詳細は憶えていませんが、疲れ果てて故郷に帰って来たゴルトムントは死の間際で呟きます。「母のいないところでは死ねない」と。私はその言葉に目頭を熱くしました。
 私の心には、女神崇拝が芽生え育まれて行ったようです。それは、実母の死が契機になっているのかもしれません。また、私が前述した加藤道夫の「なよたけ」に感動したのは、竹取の翁の娘、少女なよたけの中に、天女、女神の姿を見いだしたからでしょう。
 三島の生き方からは、男性的な侍のイメージを感じますが、それは彼の生まれつきの性格と言うより、青春期に戦争の時代を生きた彼が望んだものだったように思います。私も侍は嫌いではありませんが、やはり女神崇拝が私の心の奥にもっとも深く染みこんでいると思います。

 三島由紀夫と私

東京大学 駒場キャンパス


   多くの点で私とは正反対の三島由紀夫です。彼は天皇主権の政体を望んでいますが、私はそれを望んだことは微塵もありません。また、彼は、古今の文学、演劇に対して造詣が深いようですが、自然科学についてはあまり興味をもたなかったようです。しかし、私は自然科学、特に天文学や生物史に強い関心があります。
 なぜ、自然科学の話をもちだしたかというと、
それに接することで、人も生物の一種であるということを思いだし、歴史観が大きく変わるように思えたからです。

 二人を比べれば一致点は極めて少ないと思いますが、にもかかわらず、私にとって三島は常に気になっていた作家ですし、1970年の事件については、それとなく予感がありました。なぜか判りませんが、彼がずっと命がけの闘いを続けているのはなんとなく判っていました。
一致点がなく嫌いな作家の筈なのに私の心から三島が消えないのは、私の中に彼に対するリスペクトがあるからでしょう。
私が抱く三島のイメージは、とことん研がれた切味の鋭い日本刀です。
 私は、冷水摩擦や剣道で厳しく自分を鍛錬する彼に憧れさえ抱きました。私は忍耐強くなく、厳しい鍛錬には耐えられないと思ったからです。
私は、力のある人間におべっかを使ったり、「どうだ私は寛大な人間だろう」などと自己チェックが出来ずに自慢したりする人物に接すると、イライラします。すると「イライラするのはお前の心に、力あるものに取り入り得をしたい,自己を安易に正当化し自慢したいという甘えた欲望が存在するからだ」とぴしゃりと言われそうな気がします。
 死後50年経ても、彼は「好きではないが気になる芸術家として、私の心の中に生き続けそうです。

(なかじま・よういち) 本会 理事・相談役
    『季刊:音楽の世界』2022年秋号掲載 

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