研究部会例会の発表
『19世紀ロマン主義の展開と黄昏T−U』を終わって
   
作曲 中島 洋一


 6月21日と9月21日の2回に分けて行った『19世紀ロマン主義の展開と黄昏 T&U』は、19世紀から20世紀に至る西洋の芸術および精神の流れを、音楽を中心にしながらも、文学、美術にまで広げて探って行こうという試みでしたが、もとよりこれだけの時間でそれを試みるためには、よほど内容を絞らないと、掘り下げの浅いものに終わってしまう危険性があります。
 第一回目は、ゲーテの文学、フランス革命、そして、『さまよえるオランダ人』から『トリスタンとイゾルデ』に至るまでのワグナーの作品について、音出しなども行いながら言及しました。ドイツ文学の吉田真氏や、作曲家の助川敏弥氏などから専門性が高く切れ味の鋭い発言をいただいたことで、発表者の私は、それなりに面白かったのですが、文学サイド、音楽サイド双方の参加者にとって、内容的には総花的でやや切り込み不足、という不満が残ったのではないかと思います。
 9月21日の第二回目の発表は『〜20世紀の社会、文化は19世紀から何を引き継いだか〜』というサブタイトルのもと、19世紀末から20世紀前半の芸術を対象といたしましが、内容的には1回目よりさらに広がり、美術や哲学・思想にまでおよびました。しかし、その中で音楽についてはアルバン・ベルク、文学ではドストエフスキーに焦点を当て、必要に応じて他の芸術作品にも言及し、共通する時代精神をあぶり出そうと試みました。また、日本音楽舞踊会議より、発表の一週間前に発行したメールマガジン版『音楽の世界』第4号において、きわめて私的な文章ですが、今回の発表の内容を知る手がかりとなるようと『3つの断章』とその前文『発表を前にして』を発表しておりますので、それを再掲載し、最後に今回の発表について、総括をしたいと思います。
 
発表を前にして

 西洋芸術史において、ロマン主義とは時代的には18世紀末から19世紀中頃までを指すようです。文学ではゲーテの『若きヴェルテルの悩み』からホフマン、ワーズワース、スコット、バイロン、ミュッセ、サンド、ユゴーのような人まで、画家ではドラクロアなどです。しかし音楽の世界では、ワグナー以降の作曲家、ブルックナー、マーラーといった人達も、ワグナーの流れを汲むロマン主義の作曲家に含まれます。よく、音楽の分野においては、他の部門に比べ、同種の芸術運動が遅れて起こるといわれていますが、私は必ずしもそうは思いません。ベートーヴェンは意識的に自分の主観的世界を表現しようとした人であり、明らかにロマン主義の範疇に入るでしょうし、18世紀後半の感情過多様式といったものにもその兆候は見られます。音楽においてロマン主義という区分が他の芸術分野に比べ半世紀以上も引き延ばされているのは、音という表現手段が抽象的且つ主観的で、文学や絵画のように、ロマン主義に続くリアリズムの時代を持たなかったこと。18世紀に完成の域に達した機能和声に基づく作曲技法が発展、変貌しながら20世紀初頭まで続いたことなどが理由とみなされますが、この問題について深く触れる機会は、9月21日の研究会の場におけるディスカッションを待ちたいと思います。
 ただ、私には今の我々の生活や価値観も、19世紀から多くを引き継いでいるように思われます。
 私が第一回目の発表の冒頭に、ゲーテからカフカ、サミエル・ベケットにまで触れたのも、そういう思いがあったからです。また、ゲーテの文学に少し触れた後、フランス革命に言及したのも、『自由、平等、博愛』といったデモクラシーの起点がそこに見いだされるという政治思想上の問題より、そこに、人間が己の欲望を解放することで手に入れた、『栄光と悲惨』、『光と影』を見いだしたからです。19世紀以降、個人が解放された結果、訪れたものは、物質主義と精神主義、卑俗なものと崇高なもの、醜い現実と理想といった、対立と分裂、混乱が溢れる世界でした。そのような社会の中で、繊細な魂を持つ芸術家のような人種はどんどん孤独になって行きます。
 ところで、リアリズムは芸術思潮の面ではロマン主義に対抗する運動のように言われることがありますが、醜い現実を直視し、それを暴くことは、現実社会に対するある種の戦いだったと思います。ロマン主義者が『夢を示すことで』現実を越えようとしたのに対して、リアリストは現実を暴くことで、現実に対して戦いを挑んだのはないでしょうか。ロマン主義→リアリズムの精神的継続性は、例えば、『ノートル・ダム・ド・パリ(ノートルダムのせむし男)』から、『レ・ミゼラブル(ああ無情)』に至るユゴーの変貌にも表れていると思います。
 社会との乖離、孤独、そのような精神状況の中で、人間は深い存在不安に襲われます。『自分が命をかけても守ろうとしている一番大切なものは、ひょっとすると周囲の人間にとっては何の価値もないものかもしれない』、そのような懐疑にとりつかれることによって生ずる心の不安は、多くの人々が青春期に体験するものと思いますが、19−20世紀の時代、繊細な心を持つ人々は、慢性的にそのような心の不安に取り憑かれていたのではないかと想像します。
 話が私事になりますが、私にとって、ドストエフスキーを読んでいた頃が、そのような不安がもっとも昂じた時期だったように思います。そして、ドストエフスキーを読むことで、さらに谷底深く落とされたましたが、やがて、そこから脱却する力をもらうことが出来ました。
 ところで、前号に掲載した文章『私と読書』の中で、私がゲーテの『ファウスト』を夢中で読んでいた頃、同世代の文学青年達の間ではサルトルが流行っていた、という話をしましたが、ドストエフスキーを接点にして、ゲーテを読んでいた私と、サルトルとを読んでいた同世代の青年達の心とが、多少なりとも重なり合える可能性が出てきたと思います。
 以下の3つの断章は、間接的に2回目の発表のヒントになるものが含まれていると思いますので掲載します。
  
【3つの的断章】 

第1章 中学時代のある出来事
 
 私は中学生の頃は、登校拒否などを起こす問題児ではなかったものの、学校の勉強はそっちのけで物思いに耽ったり、冬、雪が吹き込む校舎の中でも裸足で過ごしたり、他の子供達や先生方から見たら、多分かなり風変わりに映る子供だったと思います。私が、学校の門の前に姿を現すと、始業ベルがなるので、級友達から『精工舎』というあだ名をもらっていました。つまり、毎日確実に3分くらい遅刻したということです。
 ある日、祖母が、「中学のA先生が下した私の評価について」かんかんに怒って話してくれました。というのは、A先生は継母の友達の友達ということで、継母と顔を合わせたとき、私の話をしたのだそうです。継母が私のことを聞くと「あの子は、正義感も責任感も協調性もない。人間的にはゼロだ。」と断言したらしいのです。でも、「学校の勉強が出来るから」と継母が弁護すると、「出来ると言っても理数系の科目だけで、他は(もちろん音楽は別)まったくだめだ。」と言われたらしいのです。継母は優しい人でしたし、普段接している私を見ていて、その評価が腑に落ちなかったので、祖母に相談がてら話をしたのです。祖母は「A先生には全然人間が見えていない、やっぱり女はだめだ(A先生は女の先生でした。」とかんかんに怒っていましたが、しかし、祖母が怒ったり心配したりするまでもなく、周囲の人間がみな、A先生と同じような目で私を見ていた訳ではありません。竹馬の友などの評価では「洋一君は変わったところがあるけど、結構、正義感が強く曲がったことが嫌いだよ」とか、「結構親切なところがあるよ。それに借りたものを返さなくとも、あまり文句も言わないし」とまあ、そんなところだったと思います。
 ところで、私はA先生は嫌いではありませんでした。確かに正義感が強いものの、やや単細胞的なところがありましたが、子供達に対して、いつも情熱と愛情を持って接しようとしていることが、ありありと判りましたし、それにやや意図的に自ら風変わりな少年を演じていた私が、好人物ながら単純に思えるA先生から、そのように見られたとしても、しょうがないかな、と思ったりしました。
 それにしても、「人の見方は十人十色」と言ってすまされないほどの大きな評価の隔たりです。その頃、私に対する評価の食い違いについて、私はそれほど気にはとめませんでしたが、「ものがある(存在する)ということは、見るからこそあるのであって、見えなければないということに等しいのではないか。あるものごとが単純にみえるのは、それを見た人間が単純だからではないか」、つまり私がどうのこうのということより、A先生から見た私は、そのような存在だったということなのだと。.....
 
 
第2章 ベルクの『二つの歌曲』にからむエピソード

 アルバン・ベルクの作品に『二つの歌曲』という作品がありますが、これは、シュトルム(Theodor Storom)の同じ詩『別離の時に、我が目を閉じよう』に、1900年と1925年に作曲したものをひとまとめにしたものです。つまり、作曲した時期は15才の少年時代と40才の円熟期とに隔たっており、作曲技法の上でも、簡潔な調性様式で書かれた前者と、12音列を用いて書かれた後者とではずいぶん異なっておりますが、続けて聴いてみても違和感は感じません。
 実は20年ほど前のことですが、作曲科の授業で、色々な曲を鑑賞させた時、この作品を例に上げ、「ベルクという人は、作曲技法の面では年代によって変化がみられるが、追い求めていた世界は終始一貫している。私には彼はずっとロマン主義者であり続けたように思える。彼は変わらなかったというより、変われなかったと言えるのではないか。それは彼自身が持つ業のようなもかもしれない。15才でこれだけの曲を書いたベルクはかなり早熟だったともいえるが、この前、ヤマハの音楽教育システムで育てられたエリート少年・少女達の作品発表会を聴いたが作曲技術の面ではもっと多彩であった。10才程度の子供の作品としては、年齢不相応なほど絢爛豪華な作曲技法が盛りだくさんに散りばめられており、西洋の名だたる音楽家達を驚嘆させたなどとと宣伝していたことも頷けなくはない。しかし、ストラヴィンスキー、あるいはバルトークまがいのものなど、色々な技法が取り入られ、音楽的にもそれなりにまとまってはいたが、ただ技法を集めて披露しただけで、精神的な深みを感じさせるものなど何もなかった。ベルクはそうでないでしょう。この短い曲を聴いただけで、不安と憧れに満ちた彼の繊細な感性の息吹が伝わってくるでしょう。作曲家の能力とは、半分は技術だが、半分は感性なのです。自分の感性で捉えた世界を表現するため、より技術を磨くのだともいえる。」このような私の話に対して、学生達は一応真剣に耳を傾けていたのですが、一人の女子学生が、私が授業で用いた私のLPを借してくれ、というのです。ほんとうに聴きたいのならいいだろうと思い、その学生の願いをかなえてあげることにしました。それから数ヶ月後、学生からLPを返してもらい、再生してみると、音が掠れ、ひどい音になっているのです。学生のことだから安物の装置で、そして針圧の高いカートリッジで、何回も繰り返して聴いたものだから、LPの音溝がすり減ってしまったのでしょう。おそらく、ベルクの作品に心底共感したからと思います。卒業後、その学生は結婚し、作曲からは遠ざかってしまったようですが。
 
 
第3章 善と悪 ドストエフスキーからの啓示

 西洋の人々は、とかく人間の善性、悪性を対極にあるものとして捉えたがるようです。しかし、ドストエフスキーの文学に接していると、善も悪も同じ方向を向いており、わずかなブレによって、善と悪に分かれて行くように見えます。善も悪も人間が生きようとする力、自分の存在を意味あるものにしたいという欲求に根ざしており、大きな善への志向は、わずかな機会と心の誤りによって、大きな悪に変貌して行く危険性があるということです。
 例えば、前回の発表でフランス革命に言及した際ロベスピエールという人物についても触れましたが、彼はもともとは『民約論』の著者で「自然に帰れ」を唱えたジャン・ジャック・ルソーの思想に深く共鳴した理想主義者であり、暴力の信奉者ではなかったらしいのですが、革命の経緯の中で、恐怖政治を展開する殺戮者に変貌してし行きます。ヒットラーだって極悪人のように言われていますが、彼が自分の権力欲を充たすためだけに政治を弄ぶ人間だったら、あれだけ多くの人間が彼に追従したでしょうか。彼の心の中に、「栄光に満ちたドイツ国家を築き、貧しい人々を救済する」という、理念(妄想)があったからこそ、あれだけの力を獲得してしまったのではないでしょうか。つまり、単なる殺人鬼なら、10人くらいの人を殺すのがせいぜいなのに、正義の人は100万人、1000万人の人を殺すことが出来るということです。
 8年前、オウム真理教の事件が世の中を騒がせていた頃、一人の親オウム派といわれていた宗教学者が、自分の教え子をオウム真理教に入信させたという疑いから、勤務していた大学を解雇されるという事件がありました。
 彼は、その頃はテレビなどに頻繁に出演しておりましたので、ご存じの方もいらっしゃるかと思いますが、解職後もテレビに出て「自分は、ただこういう宗教団体があるという情報を与えただけで、入信を勧めたわけではない。従って解雇という処分には納得出来ない」などとボヤイていました。彼の主張の正当性云々は別として、某ジャーナリストから「貴方はなぜ、あの団体の危険性を見抜けなかったのか」と問われると、彼は「村井さん(故人)など、オウムの人達と会っていて、表情が非常に穏やかで、澄んだ目をしているので、こういう人達が坂本弁護士殺人事件、サリン事件のような凶悪な事件と関わっているとは想像できなかった」というのです。私は、それを聞いて、この人は宗教学者といいながら、宗教を飯の種にしているだけで、はたして人間の魂の奥底を見通すだけの洞察力を持っているのだろうかと、疑いました。
 では、村井などは、優しい微笑の奥に、残忍な本姓を隠し持っていたのでしょうか。さらに、犯罪に関わったオウムのエリートクラスの人々の多くが、人並みはずれた残忍性の所有者だったのでしょうか。
 私は、違った解釈をしています。もちろん残忍性というものは自分が気がつく気がつかないにかかわらず、心の奥底に潜んでいるものでしょうが、オウムのエリートクラスの人達には、子供の頃は他人に対してやさしく思いやりがあったという、良い子の典型のような人達が多いようです。
 ではなぜ、村井は凶悪な殺人を犯しながら、あのように穏やかな表情をしていることが出来たのでしょうか。私の推察では、彼に罪の意識が無かったからではないかと思います。もし、浅原と出会う前なら、小さな子供まで含めて弁護士一家を殺害するなど、罪の意識にかられ、とても出来なかったことでしょう。しかし浅原のもとで修行を積むにつれ、彼の人格は変貌して行ったのではないかとも思います。彼は悩んだ末、浅原が「坂本一家殺害はより高い魂に導くためのポアであり、それは通常の殺人行為ではない。」といえば、何の疑いも抱かずそれを信じ切ること。つまり、自分の自我を抹殺し、迷いを捨て、浅原の意志をそのまま、自分の意志として受け入れることこそ、魂をより高みに導く解脱への道なのだと、信じて行動したのではないでしょうか。だからこそ達成感こそあれ、罪の意識に苛まれることなく、あのように穏やかな表情を維持することが出来たのでしょう。そして、そういう面にこそ、カルト宗教の危険性が示されているのではないでしょうか。
 良くも悪くも彼らだって遊び半分でその団体に所属していた訳でなく、財産も社会的地位も捨てて出家したのですから、それだけの覚悟があってのことです。宗教を飯の種にしているだけの凡学者には、彼らの心の奥にあるもののほとんどが見通せなかったのではないでしょうか。 

○ 【総括】 ○    

 画家ゴーギャンの作品に『われわれは何処から来るか、何者か。何処へ行くか』という表題がついた作品があります。19世後半から20世紀にかけては、産業、交通手段などが急速に発達し、その結果、西洋においては、陶器、漆器など限られたもの以外ほとんど知られていなかった日本美術をはじめ、東洋の美術や哲学などもさかんに紹介され、文化の世界化が進行して行った時代です。それは多様性に満ちた豊穣な時代への突入だったと同時に、いままでの価値観が崩壊して行く混迷の時代への突入でもありました。そういう中で、鋭敏な心を持つ芸術家達は、不安に苛まれながら、強い憧れと微かに感じとれる光りを頼りに、自分の進むべき道を模索して行きます。西洋の近代文明に疑問を感じたゴーギャンは、原始の文明を求めてタヒチに向かいます。
 私が、【19世紀から20世紀に至る芸術および精神の流れ総括的に捉えてみよう】という思いに駆られたのは、その時代は、いま我々が立っている現代と直結しており、その時代を究明することなしには、いまの我々自身を知りえないという意識があったからですが、もう一つ、それは私自身の青春への回帰であり、自分が辿ってきた心の歴史を振り返る作業でもあったということです。老境に近づきつつある今、青春時代に心を捉えていた『われわれは何処から来るか、何者か。何処へ行くか』という問いかけが、再び心の中で大きくなって来ているのです。
 ところで、第二回目の発表のキーワードは『存在不安』ということでした。
『3つの断章』の第一章では、私の子供時代のことが書かれておりますが、私が感じた疎外感など、少し早熟な少年にありがちなもので、それほど重症ではありません。実は、この章は作家のカフカなどが感じた疎外感を説明するきっかけにしようと、用意したものなのですが、時間がなく不発に終わりました。
 第二章では、ベルクの『シュトルムの詩による二つの歌曲』にまつわるエピソードが書かれておりますが、発表会当日はその二曲と、初期の7つの歌曲より『葦の歌』と最後の作品『ヴァイオrン協奏曲』の3つの作品について、譜例を与えながら、かなり詳しく説明しました。『二つの歌曲』のうち、1925年作の方は、十二音技法で書かれていますが、『杼情組曲』と同じあの逆行不能の音列が用いられています。ベルクは自己の作品に、十二音技法を取り入れるようになってからも、基礎音列から、いくつかの派生音列を導き出すなどして、和声的、旋律的にも調性的に響くように工夫するなど、十二音技法の根底にある完全な無調性にもとづく音秩序の確立という理念に反するような音の作り方をしております。彼の書法の中から自分の感性が欲する音に忠実であろうとするための、涙ぐましいほどの努力が感じとれます。しかし、作曲法上の問題に深く踏み込んだ説明は、音楽の専門家、特に、作曲系、あるいは作曲理論を研究している音楽学系の人々でないと理解するのが困難なので、今回は概説をするにとどめました。
 発表会の後半は、比較的に参加者のみなさんが読んでいる確率が高い、ドストエフスキーの『罪と罰』をきっかけにし、文学、哲学に話を進め、ディスカッションをして発表会を終えました。最後の方で『実存哲学』という言葉が出てまいりましたが、それがキーワード『存在不安』の延長上に来るとものだいうことは、言うまでもありません。
 私はドストエフスキーを読んで以来、人の生とは意識するしないに関わりなく、自己の存在を意味あるもの、充実したものと感じたい、という欲求を原動力としたものであること。それが知的欲求、正義欲、自己表現欲、権力欲、名誉欲、物欲など、いろいろ姿を変えて表れてくるものなのだということ。というように人間の生の営みを分析的に見る癖がついてしまいました。いま、私が一番強く取り憑かれている欲求は「知りたい」という欲求と、「捉えたものを表現してみたい」という欲求です。
 「知りたい」という欲求、つまり、自分を知りたい、世界がなんたるかを知りたいという欲求は、人が生きている間中持ち続け、永久に満たされることのないものでしょう。
 しかし、いつか、文学者、歴史学者、音楽家、美術家などに集まってもらい「19世紀、20世紀の芸術・文化」について多角的に意見交換をする機会、例えば音舞会主宰の『拡大研究セミナー』のようなものを開催したいと思っております。また、「捉えたものを表現してみたい」という欲求については、2005年2月公演をめざして、舞台芸術の大作を計画中ですので、今後、この雑誌、および私のホームページ等で、進捗状況などについてお知らせして行きたいと考えております。
 締めとして、『ロマン主義的なもの』について、きわめて私的な基準を示してみたいと思います。「今ある現実に甘んじることなく、あるべきものを追求し続けるこ心。瞬間の中にある永遠を捉えたいと願う心。存在するが目に見えないものを見よう、そして見せようと欲する心。あらやる困難を乗り越え、存在の全貌(世界の全体)を捉えようと欲する心。」そのような精神はいつの世にも存在し、決して滅びることがありません。
           (なかじま よういち 事務局長)

『音楽の世界』2003年11月号掲載

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