特別寄稿 スポーツ、文化、そして政治
作曲:中島洋一
はじめに
この寄稿文は、2022年秋号に予定している東京夏期オリンピック・パラリンピックに因んだ特集「スポーツと文化(仮題)」の前章として書かれたものです。主力は、次号の特集に引き継がれますので、そちらにも目を通していただきたく存じます。なお、タイトルを「スポーツと文化、そして政治」ではなく「スポーツ、文化、そして政治」としたのは、スポーツも、音楽、文学、美術などの芸術、学術研究などとともに、人類の文化の重要な担い手と考えているからです。
57年前の東京オリンピック開会式の思い出
1964年10月10日 東京オリンピック開会式:日本選手団の入場 開会式、閉会式と主な競技はカラーで放映された。 |
1964年秋、音楽大学の4年生だった私は、3歳下の弟と北アルプス登山をしておりました。10月8日は雨の中、北アルプス表銀座コースの合戦尾根を登り、燕岳頂上に続く稜線上にある燕山荘に一泊しました。ところが夜に入ると雨が雪に変わり、10月9日の朝、外を眺めると稜線は一面の銀世界に変貌していました。二人ともまだ登山経験が浅く、ピッケル、アイゼンなど雪山の装備の備えがなかったので、その日はひとまず尾根続きの大天井(おてんしょう)岳〈2922m〉に登り、頂上直下の山小屋大天荘に一泊して翌日の行程を考えることにしました。好意でアイゼンを貸してもよいと言ってくれる登山者もおりましたが、自分たちの乏しい雪山経験を考慮し、目的だった槍ヶ岳登頂を諦め、登山コースを常念山脈に変える決断しました。
翌日の10月10日(日)は快晴で、横通岳、常念岳を通過し、西側に新雪をまとった荘厳な槍穂高連峰を眺めながら蝶ヶ岳を目指す素晴らしい山旅となりました。蝶ヶ岳山頂を越え、蝶ヶ岳山荘に着くと、山荘には当時まだ珍しかったカラーテレビが備えられており、登山者、山小屋の主人、従業員がみんなでカラーテレビの前に集まり、オリンピックの開会式を観ていたので、我々も仲間に入れてもらいました。北アルプスの山小屋で東京オリンピック開会式のカラー中継放送が観られるなど、まったく予期しなかった収穫でした。
私たち兄弟にとって、それは楽しい思い出でしたが、戦中派の人たちの中には、特別な感慨を持った人もいたでしょう。21年前の1943年、同じ会場(当時は明治神宮外苑競技場と呼ばれていた)で学徒出陣壮行会が行われ、多くの学徒が壮行会を経て戦場に向かい、戦場で散り、帰らぬ人となった若者も少なくなかった筈です。若者たちを死出の旅に送り出したその場所で、21年後、かつて敵国だった国の選手も交え、平和の祭典が開かれたのです。時を隔て二つの儀式を目撃した先輩たちの心は如何なるものだったでしょうか。オリンピックは、人類が栄光と悲惨の歴史を刻む中、今日まで続いて来たのです。
近代オリンピックの歴史を振り返って
オリンピックは国家を超越した世界の人々のための平和の祭典という理想を掲げ、現在まで開催され続けていますが、過去には以下に挙げる5回の大会が、戦争を理由に中止になっています。
《夏季》1)1916年 ベルリン(第6回大会)、2)1940年 東京(第12回大会)、3)1944年 ロンドン(第13回大会)《冬期》4)1940年 札幌、5)1944年 コルチナ・ダンペッツオ(イタリア)
このうち、1)は第一次大戦、2)、4)は日中戦争、3)、5)は第二次世界大戦が中止の原因です。
そして日中戦争を理由に辞退した東京大会(夏季)は1964年に、札幌大会(冬季)は、1972年に開催され、戦時中の中止が記憶に刻まれている戦中世代の方々には感慨深いものがあったと思います。
第二次世界大戦後、オリンピックは中止されることはありませんでしたが、それでも政治や事件によって大きな影響を受けることがありました。
まず、特定の国々がオリンピック参加をボイコットした大会があり、それが私の心に強く残っているので、まず、そのことに触れて見ましょう。
ボイコット問題で揺れた二つの大会
山下泰裕選手(柔道:現JOC会長)の涙の猛抗議は人々の心を打った 写真は共同通信社のサイトより引用 |
1980年の夏期オリンピックはソ連(現ロシア)のモスクワで開催されましたが、1979年に起きたソ連のアフガニスタン侵攻を批判して西側諸国がオリンピック参加をボイコットしたのです。私自身もソ連のアフガニスタン侵攻には批判的でしたが、それでも平和の祭典であることを理想に掲げているオリンピックはボイコットすべきではないと考えておりました。しかし、我が国でも政治筋では西欧、米国などと足並みを揃え、ボイコットをするという方向性が強まっていました。
そういう中、アスリート達はボイコットをしないように強く嘆願しました。特に金メダルの有力候補だった、柔道、マラソン選手などは参加を強く訴え、そのとき、柔道の山下泰裕氏(現JOC会長)の涙ながらの訴えかけは特に強く印象に残っています。しかし、結局我が国はボイコットを決定し、その頃選手として絶頂期を迎え、参加すれば金メダル間違いなしと云われていた山下泰裕氏も他のアスリートたちとともに、参加を断念せざるをえませんでした。
同選手が、次に開催された1984年のロサンゼルス大会では、怪我を克服して金メダルを獲得したのはご存じの通りです。
しかし、ロサンゼルス大会では、ソ連が前回の報復とばかり、東欧の社会主義の国々を引き連れボイコットしました。それから5年後、東欧革命が起こり、やがてソ連も解体されますが、1984年のボイコット事件は、戦後から続いていた東西冷戦時代の終末期に起こった出来事といえるでしょう。
その他、私の記憶に強く残る事件
1972年に開催されたミュンヘンオリンピックは、男子バレーボールの優勝、水泳、体操などで日本人選手の活躍がめざましい大会でしたが、イスラエルの選手団がテロ集団に襲撃され、人質として捕らえられ殺害されるという痛ましい事件がありました。
そして、その前回の1968年秋、東京大会に続いて開催されたメキシコ大会では、その年に起こった政治的事件の影響が色濃く反映されました。その年、チェコソロバキア(当時の国名)で、「プラハの春」と呼ばれた民主化運動が起こりました。ところがソ連はその運動を社会主義にとって好ましくない反革命的運動と見なし、夏には軍事介入して運動を弾圧します。
しかし、ソ連の軍事介入は世界の多くの人々から激しく非難されます。メキシコ五輪のバレーボール、チェコ対ソ連戦では、観客の殆どがチェコに味方し、チェコがポイントをとる度に大歓声があがりました。
そして、東京オリンオンピックで大活躍し、日本で「オリンピックの名花」と讃えられたチェコの体操選手、ベラ・チャスラフスカはメキシコ大会でもライバルのソ連の選手を相手に、総合優勝を含め、すべて種目でメダル獲得するという大活躍をしましたが、彼女は参加を認められることさえ難しい事情を抱えていたのです。
以下、私の脳裏に強く焼きついている、名花チャスラフスカが辿った生き方に触れたいと思います。
オリンピックの名花、ベラ・チャスラフスカ
東京五輪体操女子、ベラ・チャスラフスカ選手(チェコスロバキア)の 平均台の演技/東京体育館(1964年10月撮影) 【時事通信社】 |
まず、1968年当時を振り返ると、彼女もマラソンのザトペック氏などとともに、民主化運動「プラハの春」を支持する「二千語宣言」に署名しました。しかし、8月の軍事介入以降、チェコの政治体制は親ソ派が支配するようになり、彼女の出国さえ難しくなりますが、なんとか出国許可が下り、オリンピック参加が実現しました。そして、彼女は種目別平均台が銀マダルだった以外、他の5種目のすべてで金メダルを取るという大活躍をなしとげます。しかし、帰国後、体制側は彼女に「二千語宣言」への署名撤回を迫りますが、彼女は断固として拒否しつづけます。その結果、彼女は地位も名誉も失ってしまいます。
チャスラフスカについては、美しい容姿とともに、女性美を印象づける艶やかな演技が思い浮かびます。東京オリンピック当時の彼女の演技写真を眺めても、それを思い出させてくれます。
独裁的政治体制に苦しめられ抵抗した体操選手としては、ルーマニアのコマネチも思い浮かびますが、米国に亡命したコマネチと違い、彼女は母国に留まり、厳しい環境の中、ずっと闘い続けたのです。
闘い続けた彼女の生き方は、独裁者フランコに抵抗し処刑されたスペインの詩人のガルシア・ロルカ、フランコのゲルニカ爆撃に抗議し、大作「ゲルニカ」描いた画家ピカソ、ムッソリーニやヒットラーと闘い続けた指揮者のトスカニーニなど、独裁体制と闘い続けた芸術家たちの生き方と、私の心の中で重なります。
東京オリンピックでテレビ観戦していた頃の私は、彼女の美しい容姿と演技に魅了され、彼女は私にとってアイドルのような憧れの存在でした。しかし、その後、いかなることがあっても自分の信念を曲げない彼女の生き方を知り、憧れの存在から、尊敬すべき存在へと変わりました。
1989年は東欧革命の大きな波の中、チェコ・ソロバキアにはビロード革命が起こり、民主化が実現し、彼女は名誉と地位を回復します。しかし、彼女は病気を患い2016年に他界します。彼女は大の日本贔屓でしたが、彼女は自己の余命が残り少ないことを知り「大好きな日本で再び開かれる東京オリンピックを、私は天国から見守ります。」と語ったそうです。彼女の冥福を祈りたいと思います。
スポーツも芸術も、それを育て高めるのは魂の力
スポーツ選手というと、強靱な肉体を思い浮かべますが、私は優れた選手の活動の背後に強い魂の力と感ずることが屡々あります。東京オリンピックのホープとして期待されていた水泳の池江璃花子選手が血液の癌である白血病を患っていたことが判明し、多くの人々が衝撃を受けましたが、彼女はそれを公表し、病と闘う決意を表明しました。
彼女の闘う姿を追う、ドキュキュメンタリー番組が放映されたのでそれを観ましたが、ようやくベッドから解放された彼女は、トレーニングを開始し、懸垂バーに手にかけ、懸垂に挑戦しますが、長い闘病生活で痩せ、筋肉が落ちた彼女にとってそれは過酷な運動で、最初は一度も体を持ち上げることが出来ませんでした。しかし、彼女は諦めずに挑戦し続けます。そのような彼女の様子を見ていて目頭が熱くなるのを感じました。しかし、連日、挑戦し続け、とうとう10回連続して懸垂ができるようになりました。彼女は言います。「病気になったからこそ分かること、考えさせられること学んだことが本当にたくさんありました。」かの女は病との闘いを続ける中で、病気さえ自己の心身を鍛え向上させる機会としてしまうのです。私は自分よりずっと若い彼女の生き方から学び、そして勇気づけられました。「心技体」という言葉がありますが、強い体と優れた技術は、心を磨くことで育くまれて行くものだということを改めて思います。
パンデミックの中で開催されたオリンピック
東京オリンピック・パラリンピックは、新型コロナの世界的に感染拡大が収まらない中で、開催されようとしていますが、実は1920年にベルギーのアントワープで開催された、アントワープオリンピックは、スペイン風邪(インフルエンザ)が世界的に流行する中での開催となりました。スペイン風邪は1918年から1920年にかけて世界的に大流行し、世界の死者は推計で4000万人、我が国だけでも38万人超に達したという記録が残されており、犠牲者の数だけ比べると今回の新型コロナを上回っています。
1920年8月14日(土)第7回オリンピック・アントワープ大会の開会式。 開催国ベルギーを先頭にアルファベット順に29か国が入場。 左端が日本選手団(吉塚康一/百年ニュースより引用) |
しかし、その時にはオリンピックの中止または延期を強く求める声はなかったようです。当時の状況を振りかえると、1916年に開催予定だったベルリン大会は、第一次世界大戦(欧州大戦)の影響により中止となりました。
第一次世界大戦は戦前には想像できなかったほど悲惨な結果を招きました。それまでの時代には生まれていなかった飛行機による空爆などにより、兵士たちだけでなく一般市民まで巻き込み多数の犠牲者を出したのです。とくにヨーロッパの状況は悲惨でした。(我が国も連合国の一員として参戦しましたが、被害は殆どなく、欧米諸国が戦争で経済活動を縮小する中、貿易で莫大な利益を上げ、戦争景気に沸いていたようです。)
ヨーロッパを中心とした多くの人々の心に、「戦争はもうこりごりだ。平和の祭典であるオリンピック開催して、戦争を乗り越え、平和で豊かな世界を築く契機としたい」という強い願いがあったからではないでしょうか。このオリンピック開催中、どのような感染防止策がとられたか定かではありませんが、オリンピックは大成功で、平和の祭典としての役割を果たし、オリンピックのその後の興隆を招く大会となったようです。
オリンピックの政治利用と選手たち
オリンピックなど大きな国際スポーツ大会は、それぞれの国の権力者が、その政権の優位性、正当性をアッピールする場として利用しようとすることが屡々ありました。例えば東西冷戦時代には、某社会主義国は、メダル獲得という至上命令のもと、獲得したメダル数を誇り、自国の体制の優位性を示す機会として捉えていたようです。
いまでも、権力者が大きな国際スポーツ大会を政治利用しようとするケースは後を絶たないようです。しかし、参加するアスリートたちは、必ずしも権力者側に従順という訳ではありません。ワールドカップ、アジア2次予選に参戦するため来日した、ミャンマーのサッカー選手たちは、3本の指を立てて、軍事政権と闘う市民団体の指示を表明しました。
政府の推薦を受け、オリンピックに参加した選手たちが、自分の主張を貫くのは、とても難しいことと思いますが、そういう選手が現れたら、みんなで擁護し、励ましてやりたり思います。
史上初めて延期された東京オリンピック
文中、過去に5大会が中止になったこと、オリンピクボイコット事件が2回あったことなどに触れましたが、実はかつてオリンピックが延期されたことはありませんでした。感染症が治まらない中で開催されたアントワープ大会も予定通りの期日に開催されたのです。
今回、予定通りの開催、中止のいずれでもなく、延期開催が選ばれたのは、やはり参加者のみならず世界の人々の健康を守り、かつ平和の祭典としての意義を尊重し中止せず開催したいという、多くの人々の知恵と願いが反映された結果と思います。
東京オリンピック・パラリンピックは、開催が一ヶ月余りに後に迫った現段階に至っても、いまだに我が国の世論は開催、中止、再延期の間で揺れておりますが、ここで、一番大切なことを再認識しておきたいと思います。今回のオリンピック・パラリンピックは、我が国で開催されますが、オリンピック・パラリンピックは一国家のイベントではなく、世界の人々のためのイベントです。例え我が国の人々の多くが開催を望んだとしても、それが世界の人々にとって好ましくなければ、開催を断念する決断も必要です。逆に、開催に向けて大きな困難が伴っても、世界の人々の多くが開催を望むなら、その困難を克服し開催を実現する努力を積み重ねる必要があります。今回はコロナ禍の中の開催となりますから、我が国の国民、入国する海外関係者の安全は十分確保されねばならないし、安全対策についても内外に向けて十分な説明責任を果たす必要があることは勿論です。その上で、中止、開催のどちらを選択するにしろ、開催国である我が国は重い責任を担う覚悟が必要です。
私は、今回は大震災のような想定外のことが起こらない限り、開催されるとみています。
今回の開催が無謀だったのか、世界、および日本の人々にとって意義あるものだったのか、その評価はオリンピック・パラリンピックが閉幕した後、各方面から下されると思います。
本誌においても、秋号の特集記事で、そのことにも触れるでしょう。読者の方々も、それぞれの視点で評価してくだされば、この記事も、また秋号の特集もより有意義なものになると期待しております。
(なかじま・よういち) 本会 理事・相談役
季刊『音楽の世界』2021年夏号掲載
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