文化と民衆の力    夢音見太郎


  この文は、ここに掲載される筈がなかったものだが、怠け者で人心把握の下手な編集長が、ある人物に原稿依頼したものの執筆を拒否され、さらに代わりの執筆者を捜して依頼したものの、その人物にも執筆をするための十分な時間がないという理由で断られ、私に執筆をせがんで来たので、長年のつきあいもあり、書くことにしたのじゃ。それならば、民衆の力が文化現象にどのように影響を及ぼすかということを、やぶにらみの視点から、書いてみようと思う。

東西の文化の比較

 私は若い頃は日本史の方が好きだったのだが、年を取ったこの頃になって、世界史を知らないことには、日本史を深く知ることが難しいではないかという気がしてきたのじゃ。しかし、今回はそんな難しい話しではなく、民の力が時々の文化にどのような影響を与えたかについて、好き勝手に述べてみたいと思う。
 国によって時間的ズレはあるものの、洋の東西を問わず、17世紀〜19世紀は、市民層が次第に力をつけ、文化の担い手になって行く時代であろう。例えば、肖像画は、もともと王侯貴族の個人や家族を描くものだったが、17世紀のオランダでは集団肖像画が盛んに描かれるようになる。レンブラントの『夜警』などは、その種の傑作であろう。その絵のオーナーも描かれたモデルも複数の市民である。17世紀のオランダでは、他国に先駆けて市民社会が到来し、市民が文化の担い手になって行ったのじゃ。画家への報酬も「ダッチカウント(オランダ人の勘定法)」、つまり、描かれた市民達が割勘で支払ったことじゃろう。
 我が国に話しを移すと、南画(文人画)や禅画は武士階級のものだろうが、浮世絵などは市民(町人)が、育んだものであろう。江戸初期の菱川師宣などは肉筆画を描いたが、やがて需要の拡大を踏まえ、浮世絵版画として発展して行き、鈴木春信、喜多川歌麿、東洲斎写楽、葛飾北斎、歌川広重などの優れた画家を生み出し、多色刷りの技術も大幅に向上して行く。
 次にオペラと歌舞伎を比べてみよう。その発祥、発展の経緯も異なり、また内容的にも音楽のウェイトが非常に大きい西洋のオペラと、芝居、舞踊のウェイトが大きい歌舞伎では少し異なるが、生まれた時期、それを支え育んだ層において共通点が見られる。どちらも、富裕な市民(町人)たちが、スポンサーの中心だったのであろうが、それほど金持ちではない一般庶民を締め出していた訳ではない。例えばミラノのスカラ座の「天井桟敷」、歌舞伎の幕見席(大向う)など、安い席もあり、そこに通の常連客が集まり、役者の名演技に対して、「成田屋!」、「成駒屋!」などと賞賛の声をかけていたのじゃ。
 江戸時代の町人達は、俳諧を源とする「川柳」、清元、都々逸、などの音曲、天麩羅、寿司などの料理、様々なジャンルにおいて多彩な町人文化を生み出すのじゃ。 
 文字の読書きが出来ることを「識字」というが、江戸時代末期の日本人の識字率は65%に達しており、同時代の西洋先進国の識字率より、ずっと高かったのじゃ。私が子供の頃は「江戸時代」は封建時代で、文明が停滞した時代と教わったが、それはある面ではかなり違っており、町人の文化が大きく育ち成熟した時代だったのじゃよ。260年もの間、戦争がない平和な時代が続いた国は西洋にはなかったしね。
 ところで、私がオランダに滞在していた頃、鈴木春信の浮世絵版画集をオランダの友人に見せたら、彼は大いに興味を持ち、じっくり家で観たいと言って借りて帰って行った。数週間後、借りた本を返す時、彼は「ほんのりとセクシーでとても素敵な絵だが、どこか、ひ弱な感じがずる」と、感想を述べた。画家の個性にもよるが、確かにオランダの集団肖像画に描かれた人々は、自信満々で堂々としている。そこで、私は「17〜18世紀のオランダの市民達は、自分達が中心になって政治を行うことが出来たが、江戸の町人たちは、支配階級である武士階層を凌ぐほどの経済力を持ちながらも、政治権力は持っていなかった。そういうことが、そことなく絵に表れているのかもしれない」と説明したのだった。その説明が当たっているかどうかは、私にもよく判らないのじゃが。

オーケストラの編成、楽器の変遷について

 私が学生の頃の話しじゃが、NHKラジオでその週のコンサートを批評する番組があり、今では珍しくないが、当時はまだ珍しかったチェンバロのコンサート(多分、東京文化会館の大ホールで行われたものであろう)を批評していた野村光一、山根銀次といった音楽批評家のお歴々が、「それにしても小さな音だね。これじゃピアノにその座を奪われる筈だ。」などと語り合っていたことを憶えている。ピアノはイタリア語の“クラヴィチェンバロ・コル・ピアノ・エ・フォルテ”(弱い音と強い音が出せるチェンバロ)の名称通り、大きな強弱の変化を再現出来ることが売りであった。鳥の羽軸で弦を引っ掻いて音を出す、チェンバロと、ハンマーで弦を叩いて音を出すピアノでは、発音方式からして、強弱表現という面では、後者が圧倒的に有利だったのじゃ。ピアノはどんどん改良されて行き、19世紀の後半にはほぼ完成の域に達し、大きなホールでも聴き手の耳を満足させるだけの表現力を獲得して行く。もう少し早い時代に起こった絃楽器におけるビオラ・ダ・ガンバ属の楽器から、ヴァイオリン属の楽器への交替も、よりよく響くヴァイオリン属の楽器が好まれるようになって来たからじゃろう。
また、オーケストラの編成の編成規模も、時代によって変化して行く、モーツァルトや、ハイドンの初期〜中期の時代では、交響曲といえども20人かそれを少し上回る程度の編成だったが、時代が進むとともに大規模になり、ベートーヴェンの時代になると二管編成が定着し、ホルンは四本使われるようになる。つまり、50〜60人程度の編成に膨らむのじゃ。
 それは、音楽演奏の場が、次第に王侯、貴族の館のサロンから、市民達もチケットを買って聴くことが出来る広いコンサートホールに移っていったからじゃよ。
 また、ハイドンなど古典時代に活躍した作曲家のスコアを見てご覧、第二ヴァイオリンやヴィオラのパートが、殆ど第一次ポジションでひけてしまうほど、やさしく書かれてあることに気づくはずだ。貴族たちの中には下手な横好きで、演奏の仲間に入りたがるような者が結構いたので、そういう貴族たちへのサービス心から、易しく書いたのじゃよ。しかし、演奏したがるような音楽的意欲のある貴族は、作曲家からみて疎ましい存在ではなかっただろう。しかし、中には無教養で無粋な人間と思われるのが嫌で、しぶしぶとコンサートに付き合い、途中で居眠りしてしまうような貴族もいたことだろう。ハイドンの『びっくり交響曲』などは、そういう族(やから)を驚かしてやれ、という意地悪な魂胆があって書いたものではないかと想像する。第二楽章の突然のffに驚く貴族たちを尻目に、「してやったり」とニンマリするハイドンの表情が目に浮かぶようじゃ。
 ところで19世紀は、産業革命を通して富裕な市民層が育って行った時代でもあったが、ピアノだけでなく様々な楽器が生み出され、改良されて行った。例えば木管楽器のキーシステムの改良(ベーム式など)、金管楽器のバルブによる菅の長さの切り替えなどがそうだ。ベートーヴェンの第九交響曲の第三楽章で、四番ホルンだけが難しいソロを演奏する。その理由は四番奏者だけが、バルブで菅の長さを切り替え様々な音程で演奏できる新式のホルンを持っていたからなのじゃ。もっとも今では、そのパートは殆どの場合、第一奏者が演奏しているがね。
 器楽や、声楽の演奏技術もどんどん高度化して行く。ヴィルトゥオーソの時代の到来だ。音楽マニアたちが演奏家に名人芸を求めたということも原因であろうが、作曲者や演奏者の側も自己の芸術の表現力の拡大を求め、難しい音符を書いたり、演奏したりしたのじゃよ。ハイドンの初期の時代には易しかったオーケストラのヴィオラのパートも、ベルリオーズやワグナーの時代になると、ずっと難しくなる。優れた指揮者でもあったベルリオーズは、自分の作品を指揮していて、ヴィオラ奏者がちゃんとひけないと言って、しょっちゅうボヤいていたようだ。

 
市民の時代到来とその後

 市民達が次第に力をつけ、文化の担い手になって行く話しをして来たのじゃが、市民勢力の台頭が、民衆に幸せだけをもたらした訳ではない。それが様々な悲劇も生むのじゃよ。少し政治の話しをすると、フランス革命は、フランス、ウィーンの歴史のみならず、全ヨーロッパを巻き込んで行く。自由、平等、博愛の理念が掲げられたのだが、利害の衝突、合い続く権力闘争により、多くの血が流されることになる。「博愛」が、「迫害」に変わってしまうのだ。
市民勢力といっても、高い教育を受け財力を持つ、ブルジョワから、その日のパンにもこと欠くようなプロレタリアートまで、様々な階層の人達がおり、それらの人々がそれぞれ自分達の権利を主張し、対立し、抗争を繰り返してしまったからだ。安定した市民社会を築くまでには,多くの犠牲と長い時間が必要だったのじゃ。
また、ヨーロッパはさほど広くない土地に、様々な民族が入り乱れて生活している。ハプスブルグ帝国などは、もともと典型的な多民族国家である。市民の権利拡大の要求と民族の自決権獲得の要求は、重なって進行して行く。フランツ・ヨーゼフ一世なども、はじめは、各領地で起こった民族自決運動を弾圧するが、やがて、自治権を認めざるをえなくなって行く。市民の力が強くなる中で、支配者達は、いかに市民の力を引き出し、国を富ませ市民達に満足を与えて行き、その一方でいかに市民の力をコントロールし安定した支配を続けるか、大いに腐心するのじゃ。しかし、民族の自決権を獲得した国は、民族間の対立といった新たな問題を抱えることになる。こうした問題は現代まで続いている。例えばユーゴスラビアはソ連崩壊によりその支配から解放されるが、クロアチア人・ボシュニャク人と、クロアチア人の間で、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争が起こり、多くの犠牲者を出してしまった。いまは、国内にクロアチア人・ボシュニャク人によるボスニア・ヘルツェゴビナ連邦とセルビア人によるスルプスカ共和国を並立させることで、なんとか安定を保っているがね。しかしその一方、かつて戦争を繰り返して来たヨーロッパ諸国は、EU(欧州連合)という形のもと、経済面、政治面において、まとまりを見せて行く。
 再び文化に話しを戻そう。19世紀になり、多くの市民達が、コンサートホールや、オペラハウスで音楽を楽しむようになった。しかし、それを享受出来たのは、ある程度経済的に豊かな市民層であろう。現代は先進国においては、国民のすべてが、文化を享受出来るようになった。大衆文化時代の到来である。ポップスの野外コンサートなどは、スピーカやアンプを積み木のように重ね、集まった数万人の人々に大音響を届けるようになった。
 そのような時代に、主にクラシック音楽を中心に活動している我々は、いかにしたら良いのであろうか?それは、我々一人一人が常々考え続けて行かなければならない問題だが、自分自身も大きくみれば大衆文化を構成する一員であることは忘れてはいけないのではなかろうか。と同時に、大衆というものを一様で画一的に捉える必要はない。歌舞伎や、能楽のような古典芸術もむしろ、今の方が一昔前より盛んになって来ているし、オペラや、クラシック音楽の愛好者も依然として多く存在するのだ。自分が美しいと思っているものを、全力をもって人々に伝える努力を続けなければならないだろう。しかし、人は様々だから、みんなに判ってもらう必要はなかろう。我々が熱い情熱を持って活動する限り、伝わる人には伝わることを信じて活動しつづければ、よいと思うのじゃが、如何だろうか。 
            (ゆめおと・みたろう  音楽戯評)
                                                        『音楽の世界』2010年7号掲載 
文化シンポジウム「西洋近代史の中音楽家たち〈第1回ハップスブルク帝国と音楽家たち〉 とタイアップさせた入門者向け文章

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