1995年3月20日に東京で起こった地下鉄サリン事件は日本の社会を震撼させた。その日以降、新聞、テレビなどにおいて、オウム真理教関連のニュースが、連日大きく報道され、テレビのワイドショーに番組に教団幹部などが出演し、多くの時間が関連番組に割かれ、そのような状況は5月16日に教祖の麻原彰晃が逮捕されるまで続いた。視聴者に媚びた興味本位に報道も多くみられたが、人々が抱いたのは、頭も良く誠実そうに見える高学歴の幹部信者の多くが、なぜこのような凶悪な事件に荷担したのかということに対する、関心と疑問だったと思う。
私自身、事件の被害者に対しては同情を禁じ得なかったが、何が教団幹部たちをそうさせたかのかを自分の心と照らし合わせながら洞察してみたいという強い気持ちに襲われた。
私はオウムに関する文章は、雑誌などには発表しなかったが、自分が属していた音楽大学の教員組合新聞、それと、私が属していた音楽文化団体の会員向け広報紙に、いくつかの文を発表している。
その事件から、そしてあれを書いた時から20年を経た今、あの事件は何だったのか、自分自身がその事件について、どのように考えていたかを確認する意味もあり、公表することとした。
A)日本音楽舞踊会議の会員向け広報紙 ECHO に発表した文章
当時、私は団体の責任者である事務局長(現:理事長)の職にあったが、当時の広報紙「ECHO」は、事務局長自身が編集し発行する慣わしになっていた。[ECHO]は、半分は会が主催するコンサート、研究会などの情報で占められていたが、残りのスペースは、会員が自分の意見や、近況報告を自由に発表出来るようになっていた。
ただ、現役の事務局長がオウムの事件に実名で書いたことについて、問題視する会員もいた。
日本音楽舞踊会議会員の思想信条の自由を認めることを会のモットウとしている団体であるため、会の代表者は実名で政治的発言をすることは慎むべきという不文律の合意が存在していた。それは会の代表者の主張が、会全体が共有する主張と、誤って受け止められる危険性があると考えられたからである。
しかし、オウム真理教事件については、内容は政治的なものではないし、実名で書くべきと判断し、それを実行した。
「カルト教団と現代(オウム真理教事件) 1、2」は実名で書いた記事であり、「エコー論壇」は記事を実名で書いたことについての釈明である。
「オウム教団への破防法の適用について」は、政治的な発言であるため、偽名を使っている。
なお、この文が発表された後、破防法の適用は見送られた。
B) 国立音楽大学 教員組合新聞の記事「オウム事件と国立音大デモクラシー」
当時、私は教員組合の広報を担当しており、自ら新聞を編集し発行する立場にあった。この音大の教員組合は、団交などの労働運動の場であるとともに、普段はなかなか一緒に集まる機会が少ない、演奏系、作曲系、語学、一般教養など異なった部門の先生方が集まり、交流するサロンのような役割も果たしていた。新聞も半分は組合活動に関する広報、残りの半分は先生方が自由に自分の意見を発表できる場を提供していた。この文は、オウム真理教事件について触れ、そこから大学におけるデモクラシーについて考えて行くように書かれている。
自分自身が編集発行の中心にあったので、名前を伏せ 「1組合員より」としてある。
この文が最初に書かれ、その直後にエコーの最初の文が書かれている。発表の場が異なることもあり、内容的には重複しているところも多い。
中島 洋一
(オウム真理教事件ののMENUに戻る)
(歴史、科学、社会のMenuへ)