オウム教団への破防法の適用について
小言幸兵衛
オウムの事件は日本人の心と社会を震撼させる事件だが、破防法の適用は難しいと見ていた。しかし、突然その適用が現実のものとなった。破防法が成立するまでの経緯に触れる余裕がないので、破防法の骨子となると思われる、第2章『破壊的団体の規制』−第5条(団体活動の制限)の条文の最初の部分を検証しよう。
『公安審査委員会は、団体の活動として暴力主義的破壊活動を行つた団体に対して、当該団体が継続又は反覆して将来さらに団体の活動として暴力主義的破壊活動を行う明らかなおそれがあると認めるに足りる十分な理由があるときは、左に掲げる処分を行うことができる。但し、その処分は、そのおそれを除去するために必要且つ相当な限度をこえてはならない。・・・・』
『明らかなおそれがあると認めるに足りる十分な理由があるときは』、つまり、『また繰り返すかもしれない』といった曖昧な理由だけで、適用してはいけないということである。
将来の危険性に対する公安調査庁の見解の核になる部分を抜き書きすると『教団の団体としての本質的な危険性は、信者が麻原被告に絶対的に従属し、正常な判断力を失い、麻原被告の意のままに忠実に命令を実行するところにある。麻原被告の命令や指示があれば、ただちに暴力主義的破壊活動に結び付く蓋然(がいぜん)性は極めて高い。』
上記の見解は的外れとは思わぬが、このような傾向はカルト教団一般にいえるもので、逆の見方をすると、一般信徒が教祖の指示無しで自分の意志で独自に動くことは困難である、ということを意味する。現実には教祖は囚われの身で、もう解放されて信徒達と接することはおそらく永久になかろう。もちろん「崇高な目的のためには殺人も許される」とするヴァジラヤーナ(金剛乗)の教えをいまだに信じている信者もいようが、「何が崇高な目的のための殺人か」という判定は独裁者である教祖のみに許されるのである。
今度の破防法適用について注目されるのは、警察庁や公安よりずっと前から、オウムの反社会性と危険性を察知して、オウムと戦って来た、オウム被害者弁護団の弁護士諸氏や、ジャーナリストの諸氏がこぞって破防法ぼ適用に反対していることである。これらの人々は、もっともオウムをよく知っている人達である。これは私の推察だが、あの殺害された正義と熱血の人坂本弁護士がもし生きていたら、やはり破防法の適用には反対したものと思う。
このようなカルト教団の犯罪再発の可能性を鎮静化させるには、出来るだけ早く組織を解散させ、教祖と信徒を精神的に引き離すこと。一般社会との接触を断ち、信者だけで生活を続けるような状態を出来るだけ早く解消し、そしてカウンセリングの専門家、宗教家、脱会信者などの力を借りて、残された信徒の心をケアして行くことではなかろうか。一言で社会復帰といっても、いままで信じていたものを捨てるのは容易ではないし、それを捨てて精神的にもぬけの殻の状態になって、そこから立ち直るのも大変なことであろう。やはり、その過程で安心して話し合い励まし合って行けるのは、同じ挫折を味わった元信者、あるいは自分と同じく、オウムから脱却しようと苦しみあがいている同胞ではなかろうか。それが、オウムの信徒達が集まったというだけで、すぐ破防法違反かと疑われ、行動をいちいち環視されるような状況が続けば、返って信者の社会復帰も遅れるのではなかろうか。
破防法の適用は「オウムが憎い。自分達と価値観をまるで異にする異宇宙からの侵略者オウムを出来るだけ早く抹殺したい」といった世論の追い風を受けてのことと思うが、「彼らがなぜこのような事件を起こすに至ったのか。ひょっとすると自分だってきっかけがあれば同じ過ちを犯したかもしれないのではないか」などと考えることなく、ひたすら抹殺しようとするあり方は、自分達こそ真理の実践者で、オウム以外のものは猿にも劣る愚者と決めつけ、サリンをバラ蒔いたオウム教団と、どこか似たものを感ずるのである。
さらに最も重大な懸念は、もし国民が選択を誤り、より独裁的な政治勢力が権力を握り、その危険性に気がつき行動した人々に対して『また繰り返すかもしれない』といった曖昧な理由で、この法律を乱用するようなことがあったら、それこそ大変なことにある。そして、その大変なことは過去の歴史で幾度も繰り返されたことだからである。
私は現在の破防法がよいかどうかは別として、今の世の中は想像もつかないような狂気の集団が現れて凶悪な犯罪を犯す、という危険性を拭い去ることが出来ない世の中かもしれないとも思う。そのような危険性から世の中を守るためには、なんらかの法的ガードは必要かもしれない。しかし、それを行使するのは、どうしてもそうしなければ危険を回避出来ない、という場合に限るべきであろう。
私には今回の適用は、あまりに安易すぎたように思える。これが悪い先例にならぬよう、我々は厳しく監視しつづける必要があろう。
(日本音楽舞踊会議 会報誌「エコー」 1996年1月号掲載
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