エコー論壇  
〜 なぜ!事務局長の私が『オウム事件』についての連載論評を実名で投稿したか 〜

                                                         事務局長:中島洋一
 

 なぜ!会の現役の事務局長がこのような時期に実名でオウムの事件についての論評を投稿したのか、会員の方々の中には疑問や批判をお持ちの向きもあるかと存じますので、そのように決意した理由について釈明しようと思います。
 まず、事務局長は一応会を代表する要職であり、個人の発言が会全体に悪影響を及ぼさないよう配慮せねばならないでしょう。では、個人としての発言することは慎むべきなのか否か。これは非常に難しい問題ですが、私は私なりに

 
a)事務局長個人の意見が、会の公の姿勢と混同されやすい場合、
 b)個人的な中傷をするような文章を書くこと


以上のような文章は、公人としては慎むべきと判断しました。
 たとえば、小選挙区制のような政治問題の場合、一概にどちらが正しいとは決めらないし、賛成、反対といっても中身は様々でしょうし、会の内部の意見も様々だったと思います。そのような時、事務局長が実名で意見を述べれば、どちらかの方を勢いづける結果になり、会の全体的な姿勢に少なからず影響を与えかねません。しかも、このような問題については『音舞会は小選挙区制導入反対!』とかいうように、会としての姿勢を公に表明することも出来ます。事務局長が実名で意見を述べれば、公にはそれが会の声明と受け取られかねません。このような問題については意見を伏すか、それでは会の言論活動が活性化しないと判断した場合は、匿名で意見を掲載するなどの方法をとる必要があるでしょう。
 しかし、オウムの事件は、その社会的評価自体は、『許しがたい非人間的な行為』というところで動かし難いものとなっています。もし、それと違う評価を事務局長が下したとしたらならば、それは大問題ですが、私もその評価に立って、なぜそのようなことが起こったか、ということを究明する姿勢で書いています。そして、なぜ!という問いは人間の心の内側に目を向けないかぎり答えが見えて来ない性質のものです。そしてそれは、執筆者自身の心の鏡に映し出してしか見ることが出来ないのです。人間は一人ずつみな違った心の鏡を持っていて、それは貸し借り出来るものではありません。つまり、この問題については私の意見はあくまでも私個人の意見で、それが会の公の姿勢として混同、または誤解される危険性は少ないと判断しました。
 次に、私はこの事件は、現代に生きる我々の魂の空洞をグロテスクに露呈した大事件と考えています。にもかかわらず、この事件に対する一般的反応の傾向として、大騒ぎと、目を逸らそうとする姿勢が同居しているように思えるのです。つまり、『狂信的で非人間的な集団がとんでもない残虐な事件を起こした。彼らは我々とは違う異星人のような連中だ!早く抹殺してしまえ』というような反応のしかたです。しかし、そのような事件を起こした教団を一時は1万人もの信徒が支えていたのです。小教団ですから、どんなに熱心に勧誘活動をやってもその範囲には制限があるでしょう。100万人の人間に働きかけるといったところがせいぜいだったのではないでしょうか。もし我が国総ての人間に働きかけたとしたら単純計算すると100万人の信徒を獲得できたことになります。
 では、なぜ多くの人間が、オウムに惹かれたのか、これは無視出来ない問題でしょう。また「竜彦ちゃんのむごたらしい遺体が発見された時期にこんな記事を書くとは」と眉をひそめる向きもあるでしょうが、私は昔、南京大虐殺の折りに、日本の兵隊が3,4つの子供を銃剣で刺した瞬間を撮った写真を見たことがあります。その兵士も家に帰ればよいお父ちゃんだったかもしれません。人間は普段自分では想像出来ないようなことが出来るのです。
 本会は、戦争や平和の問題についても発言して来た団体です。もし、そのような人間の内にある恐ろしさから目を背けて、ただ戦争反対のみを唱えるとしたら、甘い勧善懲悪主義の域を出ていないといわれてもしょうがないような気がします。戦争も、独裁政治の成立も色々な外的条件によるところが多いにしても、人間の内側からの要因なくしては語ることの出来ないものでしょうから。
 私は書くべきか否か考えましたが、結局書くことにいたしました。この問題について書くならば匿名はありえないということを前提に。
 私も教育者の一人ですが、宗教の問題などは個人の心の問題ということで、学生達にはそのような話しをすることを避けて来ました。しかし、今、その姿勢を反省しています。人間の自我というものは、相手の魂と触れ合い、場合によっては衝突することで、鍛えられ育成されていくものです。ほったらかしで育って行くものではないのです。それは、私自身の自我も同様です。私の意見に触れ、影響を受ける人もいるでしょうし、私も他人の意見に触れ影響を受けるでしょう。それをひたすら避けようとする姿勢は、プチブル的事無かれ主義と非難されざるをえないし、そのような自分の身を守ることにきゅうきゅうとした生き方が、若者達の孤独を生み、魂の成熟を損なわせ、あのような邪教に走らせた一つの要因になっているような気がしています。
 私の論評は今回は休みますが、あと一回で終了します。私の意図をご理解いただくとともにご批判ご意見があったらどうぞご投稿下さい。
                                      (エコー 1995年10月号)

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