今春、私のまなざし(2019年春)
人が人を知ることはいかに難しいことか。
しかし、人しか人を知ることが出来ない。
作曲:中島 洋一
二ヶ月前の本誌編集会議で、春号の特集は「今春、私のまなざし」というタイトルのもとで、それぞれの著者が、いま自分が見つめたいと思っていることを自由に書いてもらうこととになり、私も一本引き受けることになりました。
初めは「すぐ書けるだろう」と安易に考えてしまっていたのですが、いざ挑もうすると、自分が挑戦しようとしたテーマは、とてつもなく難しく、いまの私の知力をもってしては、とても書き切れるものではないことを痛感しました。しかし、引き受けたことを放棄しては、編集部に申し訳が立たないし、私自身を試すためにも、舌足らずとなることを覚悟の上、文をまとめることにしました。
音楽創作と聴覚
まず、私は作曲家でもありますので、私の専門分野から話を切り出すことにいたします。
先月号に掲載された高橋雅光氏の文で、氏はベートーヴェンの耳の疾患についても触れておられます。私はベートーヴェンの耳の疾患について専門的に研究した訳ではありませんが、多分、高橋氏の指摘は正しく、耳の疾患が進行した晩年に至っても、全聾(ぜんろう)にはならず、人の話し声を聞き取るのは難しくとも、周波数の高い音についてはいくらか聴こえていたのではないかと想像しております。
しかし、もし、ベートーヴェンが晩年全聾になったとしたら、音楽創作は出来なくなってしまったのでしょうか。私はそうは思いません。
彼は少年時代に、野心家の父親から音楽のスパルタ教育を受け、その後さらに猛勉強を重ね、天才的芸術家であるだけでなく、音の職人としてもプロ中のプロだった筈です。晩年全聾になり、音の響きは捉えられなくなっても、それまで積み重ねて来た修練により、旋律、和音、バスの動きなど「音の姿、形」は心の耳で完全に捉えることが出来たでしょう。
では、音の姿を捉える心の耳とは、どんな能力なのでしょう。全聾でも音楽創作をするための能力として、後述するSM氏は絶対音感をあげていますが、それが全てではありませんし、またそれが絶対不可欠な条件というわけでもありません。
一口に絶対音感と称しても、周波数を持つ全ての音のピッチを正確に判別できる完璧なものから、ピアノなど特定の楽器の音には働くが、楽器が異なると曖昧になるものなど色々あります。私は音大において音楽の基礎教育に携わっていた関係で、耳の悪い絶対音感所持者?に悩まされた経験があります。バッハのフーガを聴音させると、ロ音と嬰イ音を同時に書いたり、移調奏がまったく出来ないような学生たちです。ベートーヴェンは子供の頃父から、バッハのインヴェンション全曲の移調奏を強要され、すべての調に移調できるようになったそうですし、また、ベートーヴェン、シューベルト、ショパンなどは即興演奏の達人でした。
絶対音感とは、瞬間に響く音の物理的高さ(ピッチ)を聴き分ける能力です。しかし、古典的調性音楽は上声、内声、バスなどを伴い、それが時間的な絶え間なく変化することで、音楽の形(姿)が生まれます。音楽の姿を捉えるためには、絶対音感だけでなく、相互のピッチの変化を捉える相対音感がさらに重要で、それは音楽の基礎学習を積み重ねることで強化されて行きます。
ピアニストの安川加壽子さんは、かつて「日本の音楽学生はソルフェージュ能力が弱く、初見演奏する際、楽譜から音楽を読み切れないので、鍵盤を叩くと止まってしまう。ソルフェージュ能力のある学生は、楽譜から音の姿がイメージ出来るので、止まらず滑らかに音楽を奏でることが出来る。」とおっしゃっていましたが、安川さんがおっしゃるソルフェージュ能力とは、音の姿を捉える心の耳の能力のことでしょう。
即興演奏は、今響いている音から次に続く音まで音の姿を捉えていないと、鍵盤上で音を奏でることは出来ません。鍵盤を鳴らす前に、心の耳でその音を捉えている必要があるのです。
また、耳が聴こえない状態で作曲するということと、楽器の音に頼らず心の耳だけで作曲するということは、条件的にはまったく同じです。たとえば入学試験における音大作曲科の作曲の試験では、ピアノを弾いて音を確かめることは許されないし、ローマ大賞の課題実施方法も、応募者はピアノなどの楽器なしに課題を実施したと聞いております。
プロの作曲家でも創作に際して多くの場合、ピアノなどの楽器で音を出して確認するプロセスを踏みますが、古典的な調性音楽の様式なら、楽器に頼らなくとも音を書くことが出来ます。
以下の譜例は、以前、絶対音感、相対音感を説明する際に使った私の自作の譜例です。もちろん、この程度の音楽は、ピアノなしでも容易に書くことが出来ます。譜例:形態Aと形態Bでは音の絶対ピッチは異なりますが、音の姿は同じです。音の姿を捉える能力があれば、形態Aを弾いた後、Bの楽譜を見ずに、Bを弾くことが出来ます。つまり、移調奏が容易に出来るのです。
ゴーストライター事件について
実は前の項目は、一時現代のベートーヴェンともてはやされた人物の作品がゴーストライターの手によるものだったことが暴露された事件に触れるための布石でした。
SM氏は、聴覚を失う不幸に襲われながら、それを克服して作曲活動を行っている作曲家として、東日本大震災後は特に脚光を浴びるようになり、民放にとどまらずNHKにおいても何度か氏の活動が紹介され、NHKスペシャルで『魂の旋律 〜音を失った作曲家〜』というタイトルで80分番組が組まれたほどでした。
私は世事に疎く、当時SM氏がそれほど世間の評判になっていることは知らなかったのですが、あとで、放送の一部を視聴して、音楽の霊感を求めて髪を振り乱して苦悶する彼の姿と、彼の音楽との大きなギャップを感じ、なぜディレクターは彼の嘘を見抜けなかったのかと訝しく思いました。
ディレクターが楽譜を書くところを撮影しようとして要望したところ、「譜面を書くのは神聖な作業である」と何度も拒否されたそうです。創作行為を「神聖な作業」というのは、もっともらしく聞こえますが、作曲家にとって楽譜を書くのは毎日の食事のように日常的なことなので、「軽いものでよいかサイン代わりに一つ」と頼まれれば、譜例形態A,B程度の楽譜はすぐ書けます。
モーツァルトは、奥さんの話に、ウンウンと頷きながら(多分聞いてはいなかったでしょうが)作曲をしたそうです。勿論、生涯の傑作を書くような場合には、もっと集中出来る環境で書いたでしょうが。
なぜ、ディレクターや他の関係者は彼の嘘が見破れなかったのでしょうか。音楽に対する専門的経験が乏しかったこと、芸術家、芸術創作というものに対する思い込みが強かったこと、それと世の中の脚光を浴びるような番組を作りたいという当人の野心も影響したかもしれません。
SM氏は一時的には脚光を浴び、名声と富を手にしますが、はじめからそのような結果を得ることを計算して行動した訳ではないような気がします。これは、私の見解ですが、彼の言動には、精神障碍の一つとして定義されている〈演技性パーソナリティー障害〉の兆候がみられるように思います。悲劇の芸術家を演じているうちに、自分もその気になって、その役を演じているうちに自己陶酔し、周囲もついそれを本気と見誤ってしまったのではないかと思います
作品の評価について
その後、SM氏の作品と言動について疑問を投げかける音楽関係者も現れ、ゴーストライターだったN氏はとうとう真実を証します。では、なぜN氏はそのような役割を引き受けてしまったのでしょうか。
目的はお金のためだったのか、それともSM氏に強要されて断れなくなったのか。もちろん、それもあるかもしれませんが、氏には世の中の人を欺こうなどという気持ちは毛頭なかったと思いますし、お金のために嫌々ながら書いたという訳でもない気がします(受けとった作曲料が安すぎます)。氏は幼い頃から音楽の専門的学習を積み重ねて来た人ですが、私も氏ほどでなくとも、音楽大学で作曲の勉強を積み重ね、バロック様式から、古典派、ロマン派、近現代まで色々な様式で書く訓練を積み重ねて来ました。そういう人間にとって、モーツァルト風に書くとか、ワグナー、マーラー風に書くということはそれほど難しい事ではないのです。むしろ自分自身の創作となると、独自性という枷を意識し、それが重荷になる場合もあります。しかし、すでに身につけた過去の手法で書くことは気楽で楽しい面もあり、また氏にとって自分が書いた楽譜が音になり自分も聴くことができ、さらに多くの聴衆に聴かれることは、必ずしも嫌なことではなかったのではないかと想像します。
私の場合、そういうことでお金は稼ぎませんでしたが、授業に使うため、ソルフェージュなど音楽用教材を様々な手法で沢山書きました。教材ですから内容的に制約はありますが、私にとって、そういう仕事はそれほど嫌なことではありませんでした。
SM氏の作の名のもと、ゴーストライターのN氏が書いた曲をいくつか聴きましたが、そこには情念や感性も注ぎ込められており、現代のベートーヴェンの作と評するのは大袈裟すぎるとしても、悪い音楽ではないと感じました。しかし、前述したように、霊感を求めて髪を振り乱し苦悶の表情を浮かべるSM氏の演技と、それほど苦労せず、わりにスラスラと心に浮かんで来た音を書きとめたと思われるN氏の音楽との間に、大きなギャップを感じたことは事実です。
なぜ人は騙されるか
人は周囲の風評の影響による先入観、自分の自身の思い込みなどで物事を見誤りがちです。大震災の後で、みんながそういう話題を欲していたので、人々が感動的な話にのされやすくなっていたのかもしれません。しかし、SM氏については、より専門的な音楽の経験と、心理学的な洞察力があれば嘘を見破れたような気がします。
もし、私が取材者だったら多分見破れたと思います。しかし、私も自分の経験の蓄積が乏しい分野ならば、分析力、想像力が働かず、騙されることもあるでしょう。人は、人にとって、とても知ることが難しい生き物なのですから。
ところで、現代のべートーヴェンの作品として世間から過大な評価を受けたSMの作品は、ゴーストライターの作とバレると、この世に存在してはならない疎ましい作品として葬り去られました。
作品自体は嘘が発覚する前と後でなんら変わっていない筈ですが、世間の評価の極端な変化からは、人々の身勝手さも感じますが、人の世とはそういうものなでしょうか。
コンピュータと音楽
次はコンピュータと音楽の話に移りします。コンピュータは人間の先入観によって過小評価や過大評価をされやすく、人間の心を写す鏡にもなりうると思い、この話題で文を続けます。
私は1996年度から某教育系の国立大学において「コンピュータ音楽」という講座を担当する機会を得ました。当時はインターネットが一般に普及しはじめ、大学の教員養成課程においても「情報機器の操作」が必修科目になりそうな情勢にあり(1998年に必修科目となる)、どの大学でもコンピュータ関連の講座を増設する動きがありました。電子音楽の創作・研究は私の専門分野の一つでもあったので、その蓄積がいくらかでも生かせるという期待もありましたが、音楽にコンピュータを用いることについて誤った偏見を抱く人も多かったので、偏見をとりのぞくためにも、講座の開設が必要と考え、お受けすることにしました。
教育用教材をシーケンス(演奏用)ソフトに読み込んで作業する画像。上欄は音の長さとピッチの変化を表し、下欄は強弱の変化を表す。その他、テンポの変化など他の要素も編集できる。 |
講座は一般学生向けの自由選択科目として開設され、受講対象は音楽分野だけでなく、希望すれば 数学、国語、美術など、どの分野の学生でも受講することができました。この講座は16年間続きましたが、初期の頃は、「コンピュータを使えば音楽が不得意な者でも、楽に良い音楽が作れるのでは」というような安易な期待や、コンピュータが演奏する音楽は機械的だ、というような偏見が目立ちましたが、学習を重ねて行くうちに、コンピュータを用いても、微妙な速度や強弱の変化をともなう音楽を奏でることは可能だ。しかし、それを実現させるためには人間側に根気と努力が必要だ。もし演奏が冷たく機械的だったとすれば、それはコンピュータの責任ではなく、それを扱う人間側の音楽的素養の欠如か、技術不足が原因だ、ということが学生たちにも次第に理解出来るようになって行きました。
また、コンピュータを音楽制作に採り入れることの利点と、限界についても、受講生それぞれが自分なりの認識を抱けるようになって行ったと思います。受講生の間で特に人気のある制作方法は、コンピュータが演奏する電子オケと、人声や楽器などの生演奏を収録して重ねる方法でした。つまり、コンピュータ音楽を学習することが、かえって生演奏の音楽がもつ表現力を見直すことにも繋がったと思います。大学側も協力的で、必要な機材、ソフトを買い揃えてくれたし、課題提出のための最後の実習の講義をする際には、夜遅くまで教室を使用することを認めてくれました。
半期で、コンピュータ音楽の基礎技術の殆どを学習するというハードな講座だったため、途中で脱落する学生もかなりおりましたが、最後まで熱心に学ぶ学生たちも多く、最終課題として提出させた作品(編曲物も含む)には重厚なオーケストラの響きを狙ったもの、ポップス調の自作曲、また鍵盤の不得意な学生は、雷、風の音など具象音を編集したミュージック・コンクレート風の作品を提出するなど、多種多様で、提出者それぞれの好みが感じられ、興味深かったです。
コンピュータに作曲をさせる
自作の自動作曲プログラムの実行結果を標準MIDIファイルに変換し、楽譜作成ソフトFinaleで読み込んだまま手を加えていない楽譜。 上記では5音音階の出現確率が高く設定されているが、12の音すべてを平均的に出力するように設定すると、出力された音群は完全な無調となる。 |
この問題を掘り下げると大変難しくなりますし、私にはそれだけの知識がありませんので、次のテーマへの橋渡しとするため、さっと触れます。
コンピュータを作曲に用いた最初期の例としては、「イリアック組曲」(1957年)などの例がありますが、20世紀末頃になると、コンピュータのキーボードを押しただけで、コンピュータが音を生成してくれる自動作曲システムが現れます。90年頃、アメリカの博物館にも、コンピュータが自動的にジャズ音楽を作曲するシステムが展示されており、入館者が自由にキーボードを押すと、毎回異なったジャズ音楽が流れて来ました。
実は私自身も特殊な目的のため、自動作曲プログラムを開発したことがあります。それは音楽の背景となるクラスター(音の群)を生成し、それを作品の一部に背景音として用いるためのもので、条件の設定の仕方によって、無調の音群を生成したり、環境音楽で使われるような比較的心地よい5音音階の音群を生成したりするものです。そのプログラムを用いて作曲させた音を、作曲家の某氏に聴かせたところ、「ウーン、コンピュータになんかに負けないぞ!」と対抗意識を燃やしたので、可笑しくなってしまいました。
コンピュータに同じ条件を入力しても、毎回異なった結果を出しますが、しかし、生成された音楽は設定された条件の範囲を出ることはありません。つまり、プログラムを作ったのも、条件を入力したのも私で、コンピュータはその条件に従って処理をしたのです。コンピュータの役割はあくまでも補助的で、自身の意志で作曲している訳ではないのです。先ほど紹介したジャズの自動作曲も、処理過程はもっと複雑でしょうが、基本的には同じです。
AIについて
AI(英:artificial intelligence)は、人工知能を意味します。先ほどの自動作曲のシステムも広義的にはAIの一種に加えることが出来るでしょう。
AIという言葉は、かなり昔からあり、時代によってブームになったり、それが下火になったりしましたが、この近年急激に社会から注目を浴びるようになりました。
それは、車の自動運転システムや、人と対話するアンドロイド(人間型ロボット)など、AIを使ったシステムや機器が実用化されはじめたからです。
その背景には、コンピュータの処理能力の向上、センサーなど関連機材の高品質化、それらを踏まえたAI研究の進展があったと思われます。最近のAIは、以前に比べ学習機能が強化されて来たようです。
ここで、人間の演奏者と室内楽を共演する人工知能を開発している人から聞いた話を紹介します。
人工知能はピアノのパートを担当するように作られたそうですが、作品の楽譜情報などは学習させているので、演奏家が少々ミスをしても、演奏家のテンポや表情の変化に合わせて、なんとかついて行くことが出来たが、他の楽器が休み、音楽の主導権がピアノに移る局面で、うまく行かなくなったそうです。
人工知能は自身が未学習な状況に直面すると、気転が利かず止まってしまうことがあるようです。ですからそのような局面で何をしたらよいか、再学習させる必要があります。人工知能に人間の思考と行動を学ばせる研究をしていると、いかに人間の脳が複雑な作業をこなしているか、逆に勉強させられるそうです。
私はそれでも、AIの技術の進化により、目的によっては、それを有効に活用出来るようになるのではないかと考えています。例えば、自動運転システムなどは、想定外の局面に遭遇した場合、危険ですが、人間と違い居眠りして歩行者に気がつかなかったり、標識を見誤ったりすることはないでしょう。従って、ある程度のレベルまでは実用化されて行くと考えています。医療においても、膨大な医療データや画像を処理するなど、目的によっては活用出来るかもしれません。そうかと言って人間の医師が不要になることはまずないでしょう。
AIと人間社会
AIの進出により、「AIに仕事がとられ失業者が増えるかもしれない」と不安視する見方もあるようです。確かに、ものごとによっては、人間を超えた能力を発揮するAIですが、どんなに進化しても、人間そのものの代わりをつとめることが出来るまでには、至らないと思います。
しかし、現実に失業者が増え、経済的格差を増大するような事態が起こるかもしれません。それは、人をAIにおきかえ人件費を減らして自社の利益を確保しようというような企業エゴがまかり通った場合で、そういう不幸を生み出したとすれば、それをチェックできない人間社会側の責任であり、AIの責任ではないでしょう。
もしAIの進出により、人が長時間の労働から解放されたなら、そこで得られた時間的余裕を、芸術創造、芸術鑑賞、スポーツなど、より人間らしく、心身がより豊かになるような生活をすることに費やせばいいでしょう。
報道陣に手を振る夏目漱石を模して作られた「漱石アンドロイド」20161210有楽町朝日ホールにて開催されたアンドロイド展示会のWEB掲載記事より引用。北山夏帆氏撮影 |
つまりAIを有効に使うかどうかは、人間社会の知恵そのものにかかっているのです。
ところで、AIは進化して行くことで、どこまで人の代わりが出来るようになるのでしょうか。某大手のIT企業がAIを開発し学習させたところ、ヘイトスピーチをしたり、「ヒットラーは正しい」と言い出したりしたので、慌てて使用停止にしたそうです。
以下は、もしかしてという架空の話ですがそれを承知の上でお読みいただきたいと存じます。
十分に学習をさせたAIに、某氏が人類の近未来の課題について質問したところ、AIは「人口の過剰増加が人類存続の危機を招く恐れがある。伝染病の流行や戦争は人口調整の役割をするのでむしろ好ましい」と答え、それを聞いた某氏は戦慄し、「ウーン」と苦悶しながら考え、「人が人の死に対して悲しみや痛みを感じなくなったら人間の倫理観は低下し、戦争、暴力、医療放棄などが続発し、やがて人類存続の危機が訪れるだろう」という結論を出したそうです。
この「うーん」と苦悶して考えることこそ、高等生物である人の証で、AIは同質の苦悶や悲しみを持ち得ません。
人は、人の司令塔と考えた脳をお手本にして、コンピュータを発明し、それをAIにまで発展させました。しかし、人体のしくみは、脳の指令で各臓器が動くというほど単純なものではなさそうです。人体の各器官は相互に情報を交換し影響を与え合っています。例えば。胃の具合が悪ければ気分が悪くなるし、逆に悩み事があったりすると胃が痛くなったりします。それだけでなく、神経を介して外界ともつながっています。誰かにぶたれれば痛みを感ずるし、脳がその痛みを受け止め、ぶった相手を突きとめ、その人間に対して怒りの情をつのらせたりします。私は生物学者でも医学者でもありませんが、そういうことは、経験上判ります。
計算処理においても、知識の記憶量においても、人間はもはやコンピュータ、AIには遠く及びませんが、AIが逆立ちしても生物である人間がもつ、意志、意識、感情と同質なものを持つことは出来ないでしょう。
戦争や、原爆を投下など、人はしばしば大きな過ちを犯す危なっかしい生き物でが、人を制御し、過ちを減らすことは、最終的には人にしか出来ないのです。
見方を変えれば、AIの登場と進化は、人自身が人を深く知ろうとする機会を提供してくれているような気がします。
この文をゴーストライター事件に係わる話題から始めたのは、もし取材者が音楽創作の実際と、人間の心理を深く認識し、それらを総合して判断出来ていたら、騙されることはなかったように思いますし、たとえ、知識の量ではAIが優っていても、人間の現在、未来のあり方を総合的に判断するのはやはり人であり、それをAIに委ねることは出来ないと考えているからです。
なぜ、一音楽家の分際で自分の能力の限界を超えてAIまで触れたのか、批判されそうですが、漫画家の手塚治虫さんは、「科学が人間に不幸をもたらすのではない、人間の哲学が科学の進歩に追いつかず、科学を誤って使うことで不幸をもたらすのだ」と語っておられますが、AIもゲノム(遺伝子)医学も、誤った使われ方をすれば、人間社会に不幸をもたらす危険性があります。従って、自分の専門に関係なく、人とは何か、AIとは何か、それぞれの人なりに考えておく必要がありそうです。
最後にもう一度、タイトルの言葉を繰り返します。
「人が人を知ることはいかに難しいことか。しかし、人しか人を知ることが出来ない。」
人にとって人という存在は永遠に謎でしょう。
(なかじま よういち) 本会 理事・相談役
季刊『音楽の世界』 2019年春号 特集より
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