喜歌劇コンサートの実行委員を担当して     作曲:中島 洋一

 

 
企画とその具体化のプロセスについて

 
今回も私が実行委員をお引き受けすることになったが、オペラ・コンサートの実行委員を担当するのは、2005年12月2日(金)のオペラ・コンサート『愛・憎しみ・血の惨劇!』についで、2度目のことである。前回は、殺人が主要な要素になっている作品のみを集めて公演したが、その時、出演者からも、聴衆からも、次は喜歌劇のコンサートを企画して欲しいという要望が寄せられていた。今回の公演は、その要望に答えたものである。
 ところで、本会においては、企画が提出されると、委員会等(現在では企画についての審議機関は、公演企画部委員会である)で、内容について審議される。前回も、『愛・憎しみ・血の惨劇!』というタイトルを巡って委員会で議論になり、「残酷すぎる。」、「生々しくて夢がない」、「二級ミステリーのようだ」、「いや、これくらいドスが効いていた方がよい」というように賛否両論があったのである。こういう場合は、最終的には実行委員の権限で「このタイトルで行きます」と、決断を下すしかない。
 生々しいタイトルと言えば、歌舞伎の世界では近松門左衛門原作の浄瑠璃を原作とする「女殺し油地獄」という題名の演目がある。名は体を表すというが、不良青年である与兵衛が油屋の女房お吉を惨殺するシーンは凄まじい。殺す方も殺される方も油まみれになってのたうち廻る。もちろん歌舞伎の演技には、歌舞伎特有の様式があり、殺戮シーンでさえ様式美というものを失うことはない。しかし、歌舞伎の演技の方が人間の情念が凝縮されており、むしろクソ写実主義の演技より、よほど迫力がある。オペラにも殺戮シーンは多いが、このような生々しいものはなかろう。それはオペラが音楽中心の音楽劇であるのに対して、歌舞伎の場合は、個々の作品にもよるが、音楽より劇のウエイトがより強いからではなかろうか。
 ところで、今回も公演のタイトルについて議論があった。最初提出した『愛の策略』というタイトルについて、夢がない、語句が硬すぎる、気の利いた外国語を使ったどうか、などの意見もあった。そのような意見を持ち帰り、最終的に『愛のたくらみ』というタイトルに決めた。意味は殆ど同じだが、「策略」より「たくらみ」の方が、可愛らしい感じを含むと思ったのからである。
 芸術活動において、企画を具体化してゆく段階で、複数の人間で審議し、よい意見なら取り入れて行くという柔軟性も必要であろう。前回の『愛・憎しみ・血の惨劇!』のタイトルも、元はもっと長かったのだが、他の人の意見を取り入れ、文字数を減らし、凝縮することが出来たのだ。しかし、色々な意見を聞き、みんなの意見の真ん中取りをするようなやり方、いわゆる愚直な多数決民主主義を行っては、インパクトの強い企画とはならない。みんなの意見が中和されて、方向性が曖昧で中途半端なものになってしまうからである。
 私は近松門左衛門については殆ど知識が無く、これは想像だが、近松が作品を作る際、座員みんなで審議して内容を決めて行くようなことは、おそらく行わなかったと思う。しかし、竹本義太夫のような人の意見には真剣に耳を傾けたことであろうし、場合によっては一緒に作品の構想を練るようなこともあったのではないかと想像している

 
公演のタイトルについて

 
公演のタイトルを『愛のたくらみ』とした理由は、喜歌劇に詳しい方ならすぐ察しがつくように、「策略(たくらみ)」が、喜歌劇のドラマの発端をつくり、面白い展開を生み出すための不可欠な道具となっているからである。
 『コジ・ファン・トゥッテ』の場合は、姉妹の恋人である二人の男が、相手を入れ替えて女を口説き、それぞれの相手の貞節を試すというたくらみがあり、『フィガロの結婚』も、『こうもり』も、『メリー・ウィドウ』も、様々なたくらみに満ちている。『こうもり』においては、こうもり博士ファルケの復讐劇全体より、私には、ロザリンデの夫アイゼンシュタインに対するたくらみの方が面白いし、『フィガロの結婚』においても、自分の貞節を守ろうとするスザンナと夫の愛情を取り戻そうとする伯爵夫人ロジーナの共謀と、それにもとづく大胆な行動の方が、フィガロの行動より鮮やかに見える。ロザリンデも伯爵夫人ロジーナも、変装して自分以外の人間になりすまし、夫を誘惑する。変装した妻に気づかずに夢中に言い寄る男の行動は、いささか非現実的で荒唐無稽には見えるが、浮気心にとりつかれた男の間抜けさ、滑稽さをより誇張して表現したとものと思って観ていれば、苦にはならない。
 『コジ・ファン・トゥッテ』の場合はたくらむ側が男で、それに引っかかる側が女だが、多くの場合はその逆で、鮮やかなたくらみで相手の鼻を明かし勝利を勝ち取るのは大抵女の側ではなかろうか。『メリー・ウィドウ』の場合なども、ツェータ男爵は祖国を財政危機から救うため、ダニロをハンナと結婚させようと画策するが、なかなか巧くゆかない。知らないうちに自分の妻をとられそうになり、今度は妻を誤解し、ハンナに求婚して袖にされるという失態を演ずる。それに比べて、ハンナやヴァランシエンヌは賢く、そしてしたたかである。ハンナは心の内ではダニロを思っているのに、なかなか本心をうち明けず(うち明けられなかったのであろうが)、カミユとの間の偽りの婚約を発表し、ダニロを慌てさせる。そして、確実に愛を掴んで行く。
 ところで、挨拶文で書いたように、「優れた文化は必ず上質の笑いを持つ」というのは私の持論だが、では、日本の代表的笑いの芸術「落語」をみてみよう。男女の色恋沙汰を扱った演目は、人形浄瑠璃や歌舞伎には多いが、落語ではそう多くない。落語は独り語りの芸術なのでそういう題材は向かないのかもしれない。ここでは色恋ではなく、女が男を上手にコントロールして立ち直らせる有名な人情噺、「芝浜」を例にあげてみよう。
 酒好きの男が酔っぱらって海辺を歩いている際、波打ち際で革の財布を拾って帰ってくる。開けてみると50両もの大金が入っていた。男は喜んで財布を一旦女房に預け、友達を呼んでドンチャン騒ぎをしようと言い出す。翌日、目を覚まして財布の話しをすると、女房はそんなものは受け取っていないと言い、お前さんヨッパラッテ夢でも見たのだろうと言う。男は女房にそう言われて、男は、やっぱり夢だったのかなあという気がしてくる。男は女房に、「もう酒は飲まない」と約束し、一生懸命働くようになる。三年経って時、女房は働き者に生まれ変わった男に、ここにあの時の50両があるよと渡し、「今日は大晦日で酒も肴も用意してあるからゆっくり飲んでおくれ」と言う。男が言う最後の言葉「飲んでまた夢になるとイケネエ」が、この噺のオチである。
 この噺についてみると、50両を拾うのは確かに夢のような話しだが、賢い妻が夫を上手に操縦して立ち直らせるという男女の有り様は、江戸、近代にわたる庶民の男女のあり方を考えると、それほど非現実的な感じはしない。表面上は男を立てて、威張らせておきながら、内実は女が上手に男を操縦しているという男女の関係はそう珍しくはなく、むしろ一般的なことだったのではなかろうか。
 ではヨーロッパの場合はどうであろうか?
 歌劇を観ることは中産階級の人々にとって楽しみの一つであり、おそらく、男女が連れ添って劇場に足を運んだことであろう。そこで、賢く可愛らしい女のたくらみに男が翻弄される喜歌劇をみて、男も女も楽しく笑って過ごしたのであろう。しかし、男の間抜けな有様を女と一緒に笑いながら楽しむ男の側に、賢い女に対する憧れがあったかもしれないが、実生活ではなかなかそうは行かないぞ、という余裕があったような気がする。西洋における現実の男女関係は、男は女性を崇めるように見えても、自我が強く、そう簡単に自分の主張を譲ることはなく、なかなか女の言うなりになんぞならなかったと思えるからである。喜歌劇の女性上位は、あくまでも架空の世界のことであり、喜劇の場合のように、人間の真実を痛烈に暴くという側面より、楽しい夢を提供するという側面の方が強かったのではないかと想像している

 
企画と実際の舞台

 
今回公演する演目では、台詞の部分はすべて日本語で上演することにした。こういう演出方法は喜歌劇の公演ではそう珍しいことではなかろうが、そう思い立った理由の一つに、昔の情けない体験がある。実は17年ほど前、ウィーンを訪問した際、フォルクスオーパーで『こうもり』を観た。音楽は楽しめたが、ドイツ語ダメ人間の私には台詞の意味がサッパリ理解できず、ウィーン子と思われる多くのお客が、ワッハッハと笑っているのに、私は、仲間はずれにされたようなやるせない気分で、独り黙っていた。それ以来、もし日本でこういう作品を上演するなら、歌唱部はともかく、台詞の部分は日本語にした方がよい。日本人のお客にも分かりやすし、最新のギャグなども取り入れられる。(喜歌劇にはそういう演出を許容する懐の深さがある)と思った次第である。
 ただ、時たま漠然と喜歌劇を鑑賞することがあっても、ろくに研究もしていなかった私は、企画を進めて行く段階でスコアを丁寧にみて、自分は喜歌劇というものを嘗めていたな、と反省することが多かった。特に『こうもり』など、一聴しただけでは、親しみやすく簡単に感じられるが、旋律は美しいものの器楽的であり、また高度の声楽テクニックを必要とする箇所が結構ある。そして練習量を必要とするアンサンブルも多い。今回は抜粋を上演するということで、配役が全部揃っているわけではなく、また全体として上演演目も多く、可能な練習時間について配慮すると、臨機応変にカットしたりせざるをえない。しかし、喜歌劇の上演については、昔から、その時折の事情によって、ほどほど柔軟に変更されていたのではなかろうか。例えば『セビリャの理髪師』や『メリー・ウィドウ』の序曲にしろ、初演時は違っていた筈だし、ということで、今回の上演形体については、こちらの事情も含みながら、原曲の雰囲気を損なわない範囲で柔軟に変えさせてもらうことにした。また、台詞の部分も、こちらで作り直し、出演者の判断でアドリブを入れることも出来るようにした。
 こういうやり方について、識者の方々にお叱りを受けるかもしれないが、その時は、企画し、台本を書いた私が責めを負う覚悟である。
 あとは、出演者のみなさんに頑張ってもらって、聴き応え、見応えがある楽しい舞台を創ってもらうことを願うばかりである。

                         (なかじま・よういち) 本会 理事・相談役 

       
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