自分の音、そして自分の生き方    作曲 中島 洋一 


 今月は『Fresh Concert -CMD2003-』のコンサートが開かれる月なので、この巻頭論文で、巣立ってゆく若い音楽家達のはなむけとなるような文章を書こうという気持ちでお引き受けしたのですが、総会の準備、学生の成績提出、座談会のテープ起こしなどに追われているうちに、なんのアイディアも思い浮かばないまま、締め切り日が迫ってしまいました。しかし、実は多忙というのは表向きの理由で、もともと私は何事につけ間際にならないと手がつけられない性分で、締め切り前日の14日になっても、ちょっとくらい良いだろうと、寝そべってボンヤリとテレビを見ていたのです。しかし、BS-iで放送されていた 『SUGIHARA Conspiracy of kindness ~杉原千畝 善意の陰謀~ 』には、最後まで釘付けになってしまいました。
 杉原千畝(すぎはら・ちうね)についていはご存じの方もいらっしゃると思いますが、第二次世界大戦時、リトアニア領事代行として赴任中、我が国の外務省の許可なしに、多くのユダヤ人達に、独自に『日本通過ビザ』を発給し、2000人以上のユダヤ人の命を救い、「日本のシドラー」と言われている人物です。
 もちろん私は、テレビのドキュメンタリー番組をみる以前から、杉原千畝のことは知っていましたが、ずっと昔から知っていたわけではないのです。
私は、戦争が終わって間もない頃、つまり我が国が第二次世界大戦(太平洋戦争)の敗戦国になり、その反省から平和教育が最も盛んだった時代に小学校へ入学し、ずっと、その恩恵を受けて育ってきた世代に属します。その頃は反戦文学、反戦映画などが盛んで、特に『ビルマの竪琴』、『少年期』、『二十四の瞳』などは印象に残っています。それなのに、多くのユダヤ人を救った杉原千畝の名前も、物語もまったく聞いた憶えがないのです。
 杉原は断腸の思いでリトアニアを去った後、ドイツ、チェコなどの領事館に赴任し、第二次大戦が終結後。ソ連に捉えられ収容所生活を送った後、1947年4月に一家ともどもやっとの思いで日本に戻りました。
 ところが、帰国してから二ヶ月後の1947年6月に、外務省を退職(実質は免職です)し、47歳にして外務省を去ることになります。免職の理由は、不法ビザ発行にあることは明らかですが、その時代の我が国はすでにアメリカの占領下にあり、杉原に助けられたユダヤ人からの情報がGHQに入れば、GHQの方から外務省に対して杉原罷免阻止の圧力がかかりそうに思います。しかし、彼はその後一家を養うために職を転々とします。一時はスーパー・マーケットの店員までやったらしいのですが、その後、持ち前の語学力を生かし、60年からは貿易会社勤務し、モスクワへ単身赴任します。その間もずっと過去の自分の身分を隠し続けていたようですが、彼に命を救われた人々が懸命に彼の消息を探し、その一人がようやくモスクワにいた彼を捜し当てます。再会し感涙にむせぶ彼に対して、杉原は「生きていたのか、本当に良かった」と言ったそうです。
 その後、75才になって杉原はようやく家族の住む日本に帰り、1985年にはイスラエル政府よりユダヤ人の命を救出した功績で、正義の人賞である『ヤド・バシェム賞』を受賞し、86年に、86才で没しています。晩年の彼は、殆ど何も語らない寡黙の人であったようです。長く続いた辛苦の生活が彼の性格を変えてしまったのかもしれません。
 海外での杉原の再評価の気運が高まる中、『日本通過ビザ』の事件から60年、杉原千畝が没してから15年を経た2000年10月10日になって、時の外務大臣河野洋平氏が杉原千畝氏の遺族に対し外相として初めて謝罪しています。
 こういう人の生涯に接すると、「人生の岐路に立たされた時、自分はいかなる決断をするだろうか」と、つい想像してしまいます。ナチの時代、ナチに抵抗して処刑された、芸術家、学生、クリスチャンなどがいましたが、私にそれだけの勇気がないことは、まず間違いありません。でも、「職を賭けて時の権力に抵抗したグリム兄弟のようなことなら出来るかな」と考えたりもします。それなら杉原と同じレベルではないかと思われるかもしれませんがそれは違います。グリム兄弟は文学者ですし、私も音楽家の端くれです。たとえ一時的にその職を失ったとしても、文学活動や音楽活動を続けることは出来ます。しかし、杉原の場合は大使を夢みつつ、ずっと外交官でありたいと願っていた人です。外務省を去った後の生活は物心両面で惨めなものではなかったかと推測します。彼に助けられた人々は、なぜ彼が自分達を助けてくれたのか、その理由を聞こうとしましたが、彼はなかなか答えようとはしなかったようです。しかし、ある時彼は「あなた達を憐れに思ったからやったのだ。困っている人々を助けるのは当たり前のことだ、他に理由はない」と語ったそうです。
 何度も外務省にビザ発行許可を申請しながら受け入れられなかった彼は、領事館に助けを求めて押し寄せる難民達を目の前にして、悩んだ末、決断したとのだと思います。大使になる夢をめざして、確実に外交官として在職し続けうる道を選ぶか、公務員として法を遵守する立場を貫くか、法を犯してでも目の前にいる多くの人々の命を救う道を選ぶべきか?そして、彼は内なる心の命に従い、最後の道を選んだのでしょう。
 日本の歴史を見渡すと、実に多くの立派な人物を輩出しています。上杉鷹山、大塩平八郎、足尾銅山事件の田中正造、歴史に名を残した人物だけでみても列挙にいとまがないほどですが、その数十倍、数百倍の無名で立派な人達がいたことでしょう。こういう人達の高い倫理性はどこから来たのでしょうか。広義の意味での「武士道」を源とするという説もありますが、そうかもしれません。
 人はそれぞれの人生のなかで、人、そして文学、芸術、宗教などとの出会い、そして生活を通して、自分の心の中に「人はかくありたい」という自分なりの『理想の人間像』のイメージを育んで行くのだと思います。普段はそれを忘れていますが、何かがあった時、ふとそれを思い出し、現実の自分と見比べてみて、「アー、自分はまだだなあ」と自分の未熟を痛感するのではないでしょうか。
 音楽だって基本的には同じことです。それぞれ、「自分が求める音楽、理想とする音」を心の中にイメージし続けることが大切でしょう。そういうものがある限り、人は成長し続けます。そしてそれは、どこかで、「人はかくありたい」という願いと重なり合うのではないでしょうか。今は見かけ上は平和な時代です。今の若い人達が杉原と同じような立場におかれることはまずないかもしれません。しかし、若い音楽家の方々達には「自分の音楽はかくありたい」という音の理想のイメージとともに、「人はかくありたい」という人間の生き方に対するイメージも、ともに抱き育んでいただきたいものと願っております。各々の人生のために....
                                     月刊『音楽の世界』 2003年3月号  巻頭文
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